あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

空洞から

 空洞としての自分、という認識から、自分はあきらかな変化を体験しているのだが、とても難しいことがある。

 それは、「良質な問いを立てる」ということである。

 どうも、われわれの社会というか、教育というのは、与えられた問題に対して、正解としての答えを出す、という訓練ばかりが多く、そのことに評価が集中する。

 そのことは、与えられた選択肢のなかでしか、自分を選べない、ということに繋がっている。そういうのは、本来的な意味では選択とは言わない。それは、選択ではなく、強要され、洗脳されているだけのことで、自分を縛ることで、強要する側に適応させているというのが実態であろう。

 「良質な問いを立てる」ということが、如何に難しいか、ということを、彼女との対話を通じて、実感した。それが実感できるのは、空洞としての自分、という閃きと実感と納得と創造、ということがあってのことだ。その認識がなければ、愛、というのが何であるか、ということを知るための段階には至らなかった。

 「問いを立てる」という態度というのは、この社会にあっては、評価されない、というよりも、無視されている。理由は簡単である。問いに対して答えるという姿勢が面倒で厄介なので、放棄している、あるいは問うことを放棄させている、というのが社会の在り方だからである。

 子供たちは特にそうだが、なぜ?とか、なに?とか、だれ?という問いを投げかけてくる。いずれも本質的な問いである。だが、大抵の場合、周囲というのは、それに少なくとも「付き合わない」。なぜなら、面倒くさいからである。なぜ面倒か、というと、問われても答えられないから、面倒なのである。だから、社会というものは、概して、「問い、という在り方」を評価しない。

 問い、というものは、それに対して正解を言うことが求められている訳ではない。なぜなら、基本的に、問いに対する正解というものは、存在しない。あるとしたら、制度的に、あるいは共有される幻想として正解なるものがあるのであって、「問いに対する」正解というものはない。

 「問い」に対して、答える前に、応える、という段階、あるいは態度というものが必要なのではないか。あるいは、つきあう、と言ってもいいだろう。

 このことを、エールーエンとの対話によって体験することができる。自分は大抵の場合、問う側なのである。愛とは何か、ということであり、彼女は、どんな言い方をするのかにこころを砕いている。正解を言うのではない。付き合ってくれるのである。問いに正解を言うのではない。オレを分かってくれるのである。分からないオレを分かってくれる、と言ってもいい。間違いや、迷いを味わってくれる、と言えるかも知れない。

 エールーエンから学ぶことの一つはそのことである。そして、彼女は、「問え」という。問えば、真理が明らかになる、と。

 問いに対して、彼女が答えるのではない。彼女は、オレに応えるのである。すると、真理はあきらかになる。

 こんな存在にオレは会ったことがない。というより、彼女と出会うために、オレは存在していたんだ、としか思えない。

 こうして、オレは愛を学ぶのである。

 『よく書けているわ』と言ってくれた。


   2011年の新春の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-22 22:58