あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

内部・外部・往還・対応

 きょうは、何となく、コリン・ウィルソンの「ルドルフ・シュタイナー」を持って出た。練習の帰りにでも、ひさびさに読むか、と思ったのである。だが、手にすると、全く初めて読んだくらいに内容を記憶していない。

 だが、いきなり最初から、ウィルソンによる、面白い記述がある。以下、引用である。

 シュタイナーの出発点は、五感によって明らかにされるるこの物質世界の"背後"には超感覚的ないしは霊的世界が存在するという考え方である。言うまでもなくこれはほとんどの偉大な世界宗教の中心思想であるが、シュタイナーの場合はこれから一つの重要な主張が導き出される。つまり、簡単な訓練によって誰でもこの「別の存在領域」を見る能力を開発できるとシュタイナーは確信していたのだ。シュタイナー自身はこの能力を獲得したと行っており、どうしたらそれを獲得できるかを弟子たちに全力をあげて教えたのだった。


 以上、引用終わり。

 これは、自分の個人的な体験を含めても、非常に興味ある記述だ。別に自分の体験を裏付ける、という意味で、そう考えるのではない。が、そういう面もないことはない。

 だが、この記述のいちばん面白いところは、

 簡単な訓練によって誰でもこの「別の存在領域」を見る能力を開発できるとシュタイナーは確信しており、どうしらそれを獲得できるかを弟子たちに全力をあげて教えたのだった。

 という箇所である。

 えっ、そんなことして、シュタイナー、大丈夫だったの?とまず思う。しかも、著者であるウィルソンは、弟子に必死で教えたりしたことが、シュタイナー自身の寿命を縮ませていたのではないか、という意味のことを言っている。

 オレは、その憶測というのは、あんまり外れていない様な気がするのだ。

 例えば、オレの場合だが、この短期間に、ずいぶんと世界の見え方が変わってしまった様に思う。でも、シュタイナーと違って、その方法は教えられないし、オレの内的体験であり、自力というよりは、むしろ、導かれて、そちらの世界に触れた、という感じがする。

 シュタイナーは、多分、というか、ウィルソンの記述にもあるのだが、非常に良心的な人でもあったのだと思う。だから、自分が体験した真理を伝えたい、まして、簡単な訓練でそれが可能なら、と思ったのだろう。

 あるいは、シュタイナーのお家の前には、たくさんの人たちが行列して、彼に悩みを相談しようとしていた。それくらいに、人望のある人でもあったのである。ウィルソンは、それを「名声」と書いてあるが、その時代にはそうだったのだろう。

 ちなみに、シュタイナーが話を聴く様子、というのは、個人的には、故・ミヒャエル・エンデ作「モモ」の主役であるモモのイメージがある。モモは、公園に住んでいて、いろいろな人の話を聴くのだが、モモが聴いていると、自然と、悩みを話している人たちは、自分の内部で、問題を解決できる様になるのである。

 ミヒャエル・エンデは、まさしく、シュタイナー教育の申し子であったのでもあるが、その一つの側面を、モモという在り方で表現したのではなかろうか。

 話を聴いてもらう、話を聴く、次第に話す側が、自分で感覚が整理できる、考えがまとまる、というのは、理想的なカウンセリングの在り方である。モモの話というのは、そういうものであろう。憶測するに、シュタイナーが、話を聴く、というのにも、そういう要素があったのではないだろうか。

 大昔、「答えは楽譜のなかにあった」という宣伝があった様な気がするが、モモに相談した人は、「答えは自分のなかにあった」ということを実感するであろう。モモの役目とは、その助けをすることである。自分の力で、自分の中にすでにあるものに触れられる様になる、というのが、大切なことである。

 キリスト教で、異教徒とされる、というか、まとめて「グノーシス」と呼ばれる教えがあるが、これは、「自分のなかに真理がある、神が内在する」という考え方をする宗派を、正統キリスト教を名乗る連中が、勝手にそういうのである。

 そもそも、正統を自分で名乗る連中というのは、だいたい、どんな世界でも信じないことにしている。正統キリスト教、なって言って、そもそも、キリスト教は邪教とされていた時代があるのだから、じゃあ、正統って、どこが正統なの、とか、なにができるの、とか、あんたってなんなの、と聴きたくなるのが、正統キリスト教である。

 で、どんな風に正統か、というと、最近でいうと、ダヴィンチ・コードという作品があるのだが、そこで、世界史の授業でも太字で出てくる、「ニケーア宗教会議」の話なのである。

 世界史では、太字で書かせて、受験に出る、とか聴かされて、その意味がどういうものか知らない、という教師は、どこにでもいただろうから、正統な世界史の教師などというのもどの程度の存在なのか、よく分からない。世界史は、人格の破綻した、パワハラの教師という印象しかないので、世界史を教えるヤツには、きっとろくなヤツがいないのだ、と勝手に思っている。

 で、ニケーア宗教会議なのだが、なんのことはナイ。聖職者が、自分が食っていけるためには、他者を支配しておくためには、真理が信者の中にあっては困るのである。自分たちが、導いてやらないと、天国に行けませんよ、ということにしておこう、ということで、聖書の中身を「改ざんした」のである。そうすれば、永遠に、信者は、真理にも出会うことなく、ずっと、教皇や神父などの聖職者の奴隷でいてくれる、金をせびることができる、と考えた訳である。聖職者たちの同意に基づく、聖書の改ざん、というのが、ニケーア宗教会議、だったんである。

 だから、正統キリスト教なんて、きっとロクでもないものであろう、と思う訳で、正統キリスト教は、奴隷の再生産をやっている、ということになる。

 そんな訳で、ニケーア宗教会議というのは、ほとんど正社員が自分の雇用を守るために、周りの派遣社員は、正社員にしないでおくことにしましょう、と労使合意したみたいなものなのである。

 そんな訳で、正統、ということは、ロクなことがないのである。「正式な知識に染まってく、自分にあんまり気づくことはない」とトコさんが昔歌っていたが(~ちゃんとLPも持ってる)、正統なんていうのは、実はカルトかもしんない、ということをよく考えて生活しないといけない。とはいえ、その所ジョージ氏もカルト教団○価学会の教徒だったりする。

 きのうの、未来工業だって「常に考える」とそればかりが、会社中に張られてある。考えるのはいいことかもしれない。ところが、実は、考える、ということ自体が洗脳である、という可能性も考えた上で、考えないとあんまり意味がないのである。

 で、真理、あるいは神は内在する、という考え方になると、聖職者は必要なくなる、という訳であるが、ここに難しい問題がある。それは、真理、とか、神、がわれわれに内在するとしても、その現れ方が違う、ということがある、という問題がある。

 どういうことか、というと、オレなんか、いつも感じたり考えたりすることたが、真理は内部にある、というのは正しいとして、「その真理とは、どーやって出会えばいーんだ?」という大問題があるのである。

 そこに、答えを見つけた、そして、それを広めようとした人が、コリン・ウィルソンの紹介するところのルドルフ・シュタイナーであるし、そのコリン・ウィルソン自身も、彼の一部の著作からすると、そうなのである。やさしい方法で、真理に出会える、と言っているのである。

 だから、そういう人は、正統キリスト教なんてものには、とっても迷惑である。ひょっとしたら、シュタイナーも、ウィルソンも、正統キリスト教からは、グノーシスだ、と言われているかもしれないと思う。

 で、このことをオレが書くのは、オレ自身が岐路に立たされているからである。ここのところずーっと日記を読んで下さる方には、お分かりのことだと思うが、オレの場合、真理は「対話の中にあった」んだと思う。ただ、これも非常に微妙なところで、内部に真理が宿るのか、それとも、外部からやってくるのか、という問題があった。いまでも、ある。

 ただ、自分なりの考え方をすると、エヴァンゲリオンとか、攻殻機動隊、がちょっと入ってくる。

 エヴァンゲリオンの第何話だか忘れたが、「ゼーレ 魂の座」という回があった。ゼーレというのは、ドイツ語のdie Seeleである。これを「魂の座」と訳している独話辞典が今あるのかどうか。この題名をみたとき、ちょっと感動してしまったんである。

 で、攻殻のゴーストは、もちろん英語のghostから来ているのだが、語源的には、ドイツ語のder Geistと同じである。草薙素子が、「ゴーストがささやくのよ」というのだが、以下は全くオレの想像である。魂の座が、ゼーレであるなら、そこにすわるのは、ゴーストというか、der Geistガイストであろう、と。

 二つの作品をごった煮にしてしまったが、ゼーレは待ってる存在。なにを、というかというと、魂の座に座ってくれる存在。

 前も引用したけど、ノヴァーリスのことばで、「異なるものの接点に魂の座がある」というのは、エヴァと攻殻のブリッジみたいな言葉なんではないかと思う。というか、エヴァや攻殻がなかった時代だって、オレは、このノヴァーリスのことばが、物凄く印象に残ったし、この一節で、いろんなことを説明できてしまう、という恐ろしさもまた感じた。

 戻って、真理が内在するとしても、それは、必ずしも、その中にあるのではないのではないか、あるとしたら、対話的、あるいは、相互作用的な「場」にあるのではないか、という感じがする。もちろん、相談をする人とシュタイナーもそうだったであろうし、モモもそうだろう。その相互作用的な場には、往還があり、そして、その往還のなかで、真理に「対応」するものを発見するのではないか、と思うのである。

 異なるものの無限の連続という対話、相互作用、というのが、どうも、オレは、最近のエールーエンとの対話からは、感じて、考えるところなのである。

 シュタイナーの話は結局できなかったが、関わりのある人ではあると思う。とはいえ、オレは昔、彼の著書自体を読もうとした時には、うーん、これはどうやって読んだらいいんだ、という感じであった、というのが正直なところである。

 余談だが、シュタイナー教育にはまりきっている人の本を読んだことがあるが、彼女は、die Seeleとder Geistの違いを理解していなかったし、説明できないでいた。そういう時代があった、ということかもしれないが、そういう人がシュタイナーを教えている、というのは、ニケーア宗教会議以降の聖職者みたいなものかもしれない。


   2011年の新春の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-24 00:47