あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

風邪をひいてみて

 風邪をひく、と思うことだが、「思い通りに生きようとしている人は大変だろうなー」ということである。自分は、体、などとは言わずに、常に、「からださん」という言葉を使っている。からださんというのは、他人であり、パートナーであるのだから、それをムリに何かさせる、というのは、どーかなー、と思うのである。

 でも、いちばん大変なときに、いちばん頑張ってくれるのは、やっぱりからださん、なんである。風邪をひいても、ちゃんと治ろうとしてくれるし、そもそも、風邪をひくということが、からださんが変わろうとしている、という意味もあるという。そういう意味では、季節ごとの風邪というのも大切なものなのだろう。

 からださんが、頑張ってくれる例として、いちばん印象的なことがある。ある先輩なのだが、タクシーが80㌔で逆走してきて、それにバイクごと当てられた。

 先輩は、目覚めたのだが、最初に叫んだのが、「いま、何時だ!ここはどこだ!」というものだったらしい。

 結局、事故から、意識がなく、事故に遭ったという記憶もないのである。つまり、いちばん大事なときに、意識さんは、はたらいていなかったのだ。からださんだけが頑張っていた。

 先輩は、大手新聞社の記者も務めたが、実に下らない場所だ、と言って辞めてしまった。そして、職人さんになった。だが、人間にとって大切なのは、意識である、という考えはずっと貫いていた。

 ところが、大事故に遭って、先輩は考えを変えた。「意識が一番頑張らないといけないところで、全く働かなかった。それなのに、からだは頑張ってくれた」と。

 そんな訳で、意識というものは、肝心なときに役立たないそうである。オレもそう思う。

 かといって、からださんが、全ての点でエライとは思っていない。それぞれに持ち場というものがある、ということを理解しておいた方がいいと思う。

 そんな訳で、オレは、このところは、からださんや魂さんも含めて、各セクションと合議制にしている。

 ただ、これには、一つの鋭い批判がある。つまり、それでは、からだと心が一体になっていないと認める様なものだ、という批判である。

 これは分かる。ただ、それを受け止めた上で、自分がどういう選択をするのか、という態度でしばらくやってみたい、と思う。誰にでも薦められるやり方ではない。

 ただ、それぞれの存在に「聴いて」みないと、普段注意を怠っていることで、粗末にしている部分があるのではないか、ということである。その点では、合議制、というのは、そんなに悪いアプローチではないと思う。

 自分の場合は、いまのところ、筋反射テストも使う。ただ、先日、別の先輩が教えてくれた、「問いをつくって、瞬間的に浮かんだイメージを重視する」というのは、試してみている。これはそれなりに感覚がないといけないので、一般的にどこまでオススメできるかは分からない。

 ただ、大切なことは、「直感」と「直観」である、ということは言えると思う。それを普段の生活の場面に組み込んでいく、というのは、なかなか努力がいる。それがいちばん大変なことだと思う。

 ※以下のコメントもエールーエンは載せろ、というので、珍しくコメントのやりとりまで載せたい。以下、コメント。


 ある読者からのコメント

まとめて一つでありさまざまな面があるのであって、分断して考えてはならない

ってものは、学問などなどやってると一杯出てきます。
どうしたら側面を捉えることになり、どうしたら分断して考えることになるのか。

側面を捉えるってよくわからんです。


 以下、このコメントに対する自分の返信

 根本的な疑問ですね。自分などいい加減にして、直感で済ませてしまうことがよくあります。

 ただ、直感で済ます、というのも、訳がないこともありません。

 側面とか、分断の問題は、ちょっとまた、さらにその側面になるのかもしれませんが、「意味」の問題、あるいは、部分と全体の問題と関係が深いと思います。

 からださん繋がりでいうと、技芸では、そういうことがよく分かります。

 音楽の場合ですと、音楽を表現しようとするときに、どこに「注目」あるいは「着目」するか、という問題があります。

 音楽を演奏する側としては、お客さんにとどいた音楽やイメージそのものを考えて演奏する、というのは、難しい、というか、そういう人はあまりいないと思います。

 大抵の場合は、歌でいえば、発声する仕組みにまつわる器官と、その感覚に集中すると思います。弦楽器でいうと、弓と弦の接点に注目すると思います。

 その注目した、先に、音楽、つまり「意味」がある訳です。

 部分と全体、という考え方でいうと、部分に着目した結果、意味に行き着くということがあると思います。逆にいうと、全体から部分を観る、というのは、神の視点なのではないかと思います。

 技芸の場合に戻ると、野球の場合も、バスケの場合も、昔、けっこうそれで遊んでいた時期の体験からすると、音楽と同じ様な結果になります。

 投球の時は、指から球が離れる瞬間の感覚で、球がどうなるか、どこに収まるか、というのは分かる様になります。バスケも同じで、フリースローのときは、指先の感覚に集中します。ですから、入るか、あるいは、どう入るか、というのは、結果を見て分かるのではなく、指先の最後の感覚で、分かってしまうのです。

 この場合も、指と球の接点に注目している訳で、いきなり全体を把握する訳ではありません。ただ、もっと鍛えている人は、指先だけではなく、全体的な身体イメージの統合感覚で分かるでしょう。これは、自分がやっているものですと、フェルデンクライス・メソッドというのが、これを非常に上手くやっている方法です。

 身体の場合を挙げましたが、これを見ても、「異なるものの接点に魂の座はある」(ノヴァーリス)という言葉があてはまる様に思われます。

 学問となると、どこを身体の感覚だとして、どこを意味・全体、とみるか、というのは身体を使う技芸の場合より、分かりづらい、と思います。

 妙な言い方をすると、自分は正式な学問というのが分かりませんが、読んでいると、身体感覚とぴったりくる本、というものと出会うことがあります。言葉として書かれていることは、論理、あるいは、場合によっては、詩的な場合もありますが、身体感覚が統合されたり、超越的なものとの関わりを感じてしまう本というのはあります。非常に乱暴にいうと、そういうのものを、「意味のある」体験、なのだと思います。

 もし、学問の世界でよく言われる言い方でいうと、一行に対して、一冊の論文という背景がある、という感覚になるでしょうか。部分が全体を含んでいる訳です。そういうものが、今でも理想の論文とされているのかは分かりませんが、そういうことを、学問の世界では、側面を捉える、というのかもしれません。その側面のまとまりが、まとまりの次元を超えて新しい意味を「感じさせる」というのが、理想の論文なのかもしれません。

 とはいえ、他人の文章に触れているとき、そこに、自分と他人のどういう実感が詰まっているか、というのが、自分の場合は、気にするところです。読んでいて、「相互作用を感じるかどうか」、というのが、意味のある文章に思えるか、思えないか、というのが自分の指標です。


   2011年の新春の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-24 23:09