あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

殺さずに生きることは可能か?

 前の日記で、キーシャというシャーマンの映像の在処を紹介した。(※今回の日記には、キーシャのことは書いていない。)それとはまた別な記事であるが、キーシャは、一貫して、「われわれは、自分が誰であるかを忘れてしまっている。そして、それを思い出すことが、今であり、目的である」という意味のことを述べている。

 自分が誰であるか、ということを思い出すということは、「生きている目的を思い出すことであり、それぞれが生きることにより、それぞれが自由な創造をすることが可能になる」という意味のことを言っている。

 この言葉自体は、多分正確だと思う。哲学の世界では、存在の忘却、という言葉があったが、いま、われわれは、自己の存在を思い出す時期に来ていると、いうことをキーシャは伝えようとしているのだと思う。(彼女も、それで正確だ、という)

 そう言われて、ふと、考えることだが、「では、そうだとして、自分がしたい創造とは何か?」という根源的な問いに至る。当たり前のことだが。

 そこで、私の内部は、こう答える。「殺さない存在の仕方はないのか」と。

 殺さない、というのは、如何にも消極的にきこえるかもしれないが、では、何者も殺さない在り方が、かつて、今まで、存在し得たのか、という疑問がある。

 彼女に聴くと、実は「ある」のだそうだ。だが、彼女の世界では、まだ実現には至っていないという。とはいえ、彼女の星でも、動物さんは殺さない、というところまで行っているのである。私が言っているのは、植物、あるいは、バクテリア、というレヴェルの話である。高名な僧侶も、「パンを食うということは、イースト菌を殺すことになる」とさえ、手の内を見せる形で、法話で説かれているのである。

 では、殺さないではなく、「活かす」という態度はないのか、あるいは、自分が殺されることによって、他の生命の生に繋がることはないのか、という疑問がある。

 人間という存在は、いまのところ、他の生物の脅威は少ない様に見える。しかし、皮肉なことに、院内感染で死んだり、AIDSで死んだり、ということはあるのだ。院内感染は、治癒を求めて行った先で、その環境ゆえに死すということであり、エイズは、多くの場合は、同性愛にまつわる交渉から拡がるものであるが、それが、同性愛とは全く違う、パートナーとの関係を快楽を通じて確かめあうことにより、異性間の交渉でも拡がる。生殖目的だとしても、拡がる。

 ということは、「生きよう」あるいは「生きたい」という場と関係を求めた結果、院内感染やAIDSで死んでしまうという皮肉な結果になるのである。

 人間にとっての脅威、というのは、生きる営みを求める、あるいは、生き残ろうとすることが、死につながる、ということではないのか。生き生きとしようとすることが、死と等価である、ということが、比較的最近、分かりやすい形で起こっているのではないか。

 人間にとっての死というものが、まだ充分に理解されない(自分もしていない)段階で、こうした死に方、あるいは、殺され方をする、というのは、死に対する覚悟ができていないからなのではないか、という気がするのである。

 ある先輩が、「ガンは福音である」と言われた。自分には、なんとなく、その言葉が分かる様な気がする。死と対峙する、ということが、不条理ではなく、別の受け取り方になる可能性はあるのではないか、という気がする。

 だが、今の自分には、お釈迦様が自分の身を虎さんに差し出した、という話の方が、ある意味で分かりやすい気もするのである。そして、そういう時の覚悟をして、生きる、というのも、決して悪くない生き方だ、という気もするのである。

 つい最近まで、生きる意味を見いだせなかった自分がこう言うのは、全く説得力がないと思われるのだが、いまは分かる気がするのである。

 もし、死など怖くはない、という人が、この文章を読まれていたら、もう一度、自分のためではなく、生命全体という意味で、考えてはいただけないだろうか、という気持ちを持ってしまうのである。


   2011年の真冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-11-04 23:27