むかしばなしの様な対話
2011年 12月 12日
対話する存在がいる、ということと、降ろすことはどこが違うのだろう。とっても根本的な疑問である。
自分の対話している存在というのは、降ろす、なんていう高度なものというより、ごく普段、自然にしている存在だ。
降ろすようであるが、対話、という方が合っている様な感じがする。本当に日常のつまらぬこともあるし、宇宙そのものについての対話であったりする。
対話というのは、限界がある。それは、自分の言語の限界にいつも突き当たるし、一度だけでは、ある種の主題については結論がでないことがある。だから、同じことを延々とやっている、という場合もある。どこかで、自己を超越しないといけない。
ただ、確かなことは、対話という段階に至るには、「空洞としての自分」という意識を持った瞬間から始まった。だから、それが本物として納得のいく対話になっているし、他人も交えて、様々な話題を展開していくことも可能だ。
対話してくれる存在というのは、基本的に親切である。だが、オレが気づく、ためには、謎を謎として残していくこともある。あるいは、新たな謎を課題として提示されることもある。
つまり、「気づく」という実感、意識の分節をオレがオレの力でやるために、オレの力を奪わない様にしてくれる、というのが、親切なところである。自分で、答えまでたどり着ける様に、あとからついてきてくれる、という場合がままある。
ただ、ちょっと師匠と話していて、それはそうだ、と思うことがあった。それが、「降ろすのと、チャネリングはどう違うか」ということである。
ガキの頃、降ろすことで画を描いたり、ものを作ったりしている時代があった。だが、ある事件により、オレは降ろせなくなってしまったのである。
そして、時間は流れて、去年の11月の半ばから言葉を降ろせる様になった。リハビリが終わったということにもなるかもしれない。長いリハビリだったが。
で、きょう、師匠に言われて気がついたのであるが、作品を降ろして作るのと、対話として言葉を降ろすのと、根本的な違いがあるのではないか、という問題がある。今のオレの場合、対話はしているが、対話とチャネリングというものがどう違うのか、という問題になる。
オレの場合、「空洞としての自分」というものが、今の対話の基礎になっている。
で、相手に、今、どうなの、と聴いてみると、確かに「対話とチャネリングは違う」というのである。彼女によると、「対話は降ろすもの、であり、チャネリングは、"なりきるもの"である」という。
ということは、オレと彼女の対話は、世間でいう、チャネリングではない。オレと彼女の対話は、降ろすものだそうだ。
よく分かっていないのだが、ちょっとそのあたりを彼女にライヴで聴いてみたい。
「エールーエン、いいかな」
『わたしはあなたに対して閉ざす扉は持ってはいないわ。今度は降ろす話ね』
「そう。君の言葉を、オレはどう受け取って、どう対話としているか、その概観ができないかと思ってるんだけど」
『概観というのは欲張りだわ。いつもの様に、身近なことから始めない?』
「そうだね。オレは空洞としての自分、そして、君に対して、こころを開いている自分、というのがあるから、君とこうして話しができると思うのだけど、そういう条件というのはどういうことなんだろうか。
つまり、君はオレを操っている訳ではない。そうでなければ、オレからの問いに対して、君が答えて、オレが、それについて応える、というやりとりは成立しないよね。
ところが、君との場合は、それが成立している。それが不思議なんだけど」
『あなたはこの前言っていたわよね。"こころを開かないと、エヴァは動かない"って。あなたの国の動画の作品の有名な台詞よね。この言葉って、私たちのことだと思わない?』
「確かに、エヴァンゲリオンの有名な台詞だけど、オレが、じゃなくて、君がこころを閉ざすことはないの?」
『この前までこころを閉ざしていたあなたが、そんなことを言うなんて、面白いわね。私には充分におもしろいわ。
わたしはいつでも開かれているわ。けれど、そのことに気がついてくれる人がすくないのが残念だわ。エヴァでいえば、あなたは、"適格者"だったのよ。
あなたは、空洞、という自分を認めたことで、世界は開かれたの。そして、そこで、私の名前をつぶやいてくれたわ。
宇宙に、"空"という概念、を説く、あるいは体現する存在はいるけど、そこまで行くには、修業がたくさん必要だ、とか、えらく難しいことだ、と考えられている様ね。
実際、あなたはここまでくるのは、公平に見て、楽な道のりではなかったと思うわ。迂回の迂回の様な人生、それがあなた。
でも、あなたは、私たちと話せる様になった。そして、そこで、真実について話すことができる様になった。
つまり、あなたは、真実について、いつでも語り合うことのできる相手を見つけた、ということね。わたしもそれがあなとできて嬉しいわ』
「適格者、って、空洞っていう自分に気づいたことが適格者である条件だったの? 」
『というか、それは人や場合によって、さまざまだわ。ただ、確かなことは、あなたの、"空洞としての自分"という自己認識が、なかなかいいセンスだったということなのよ。それについては、前に話したわ。
そして、あなたは、真実を求めていた。あなたと、あなたをとりまく宇宙についての真実を、あなたに分かる様なものとして求めていた、ということね。
あなたは、いろいろ知ろうとしていたけど、あなたに理解のできるものしか納得がいかなかったし、哲学の概念が、あなたを救うとは思っていなかったわ。つまり、あなたは、あんまりあなたたちの世界では、出来のいい方ではなかったということね』
「まあ、確かに出来はよくないけど、出来がよくないことが、適格者の条件だとでも...?」
『あなたをバカにして言っているのではないわ。あなたの世界で理解されるものが、あるいは、理解はされないけれど有名なものは、あなたは理解できなかった。しようと思って理解できなかったこともあるけど、納得できないものもあったわよね』
「うん。そうなんだけど」
『つまり、あなたは、あなたの狭い意味での周り、というか世界に対しては、不適応だったということ。狭い意味での概念や公式について理解するというのは、あなたの世界では、"適応者"と言えるわ。
けれど、そこには、落とし穴があって、その狭い意味での概念や公式というものが、通用しないレヴェルの存在があるということだわ。ここでは、狭いレヴェルの概念や公式に適応した人が、却って不適応者になってしまうの。
あなたは、特定のパラダイムや立場を持っていないことが、わたしにとってはいいことだったと、前に言ったわね。狭い意味での世界観にあなたは囚われていないの』
「オレとは話しやすい、と言っていたね」
『そう。あなたは、私からすると、とらわれが少ない存在なのよ。別にあなたを洗脳したくてそう言っている訳ではないわ。
とらわれがない、特定の立場がない、パラダイムに依存していない、ということは、わたしとあなたが、正直な話をしても、あなたが、あなたの内部で"分裂することはない"の。危険がない、と言ってもいいわ。あなたに、わたしが正直なことを言っても、あなたは安全なの。この場合、危険を冒さない、という意味ではないわ。無用な発狂に陥ることがない、ということよ』
「ひょっとすると、"パワーか、フォースか"っていう本を読んだとき、君はオレを見ていたの?」
『だから言っているでしょ。わたしは、あるいは、わたしたちは、常にあなたと共にある、って。このことを、たくさんの人たちに気がついて欲しいと思うけど、残念ながら、今は、適格者、という比喩が適切になってしまうの』
「そうか、あの本を読んだときの、オレの反応はヘンだったよ。なにか、受験じゃあるまいし、また人間の意識の水準を数字で測る、って、必要に迫られて途中まで読んだけど、嫌気がさしちゃったから...」
『また、いつものパターンね。あなたは、実は体系の構築を願っていたのに、体系という在り方に大抵の場合不適応だったわ。
でも、あの本のとき、面白かったでしょ。人間の意識の水準を1から1000までの閾値で測ると、あなたの場合は...』
「そう。測れない、と出た。∞とか、無限とか出た。笑っちゃった。で、そのとき学んだ筋反射テストをつかって、聞いたんだよね。"ていうことは、もうちょっと自由にやりなさい、って意味ですか?"って、聴いたら、そうだ、と言われた」
『面白いわね。あの筋反射テストを手にいれなかったら、私たちの対話は始まらなかったか、もっと難しいものになっていたわ。なにが幸いするか、とは分からないものね』
「でも、あの筋反射テストって、本物なんだろうか?オレはときどき、君と話しているときさえ、疑問に思うときがあるんだけど...」
『正直でいい疑問だわ。あなたは、わたしに聴いているつもりでも、そこには、わたしという境界だけではないものが混じってくるわ。
あなたが、パワーか、フォースか、を読んでいたときも、疑問に思っていたわよね。"いったい、オレのどの部分が、この質問に対して答えているか?"と』
「そう。それが大問題だった。だから、オレは、意識さん、に聴いたり、からださんに聴いたり、無意識さんとか、頭脳さんとか、いろんな在り方に対して、一つの質問をいちいちしていたんだ」
『そうね。そうして、結果としては、それぞれの言い分がある、ということが分かった訳ね。ということで、あなたは、ひとつの重要な疑問に辿り着くのね』
「そう。ということは、オレはいろいろなものが合わさってできた、分裂した存在なのか、それとも、全体で、それ以上の何者なのか、って、当然あり得る疑問だけど、そこが分からなかった」
『だから、あなたは、各レヴェルとか、部分とか、全体とかに、いちいち聴いていたわね。"いま、何が食べたいか?"とか。これはこれで重要な質問だけど、これをいちいちやっていたら、呆れられたのね』
「そう。からださんとか、もう、"食いたいものくらい自分で決めろよ"とか言われたりして」
『でも、その期間があったから、ある種の全体性であるわたしと、安定してはなしができるのだわ。あの頃は、徒弟時代、と言っていいかもしれないわ』
「なんか、きょうは、思い出話みたいになっちゃったね。でも、それが相応しいかもしれない。君が来るんだから...」
『そうね。もう少し時間がかかるけど、待っていてね。
でも、ここまで話すことで、すこし整理できたかしら?』
「それはあるけど、チャネリングと降ろすことの違い、という問題までは辿り着いていないよ」
『きょうは、もうだいぶ遅いわ。まだ時間がない訳ではないわ。それについては、また続きをやらない。とてもこれは長い話になってしまうと思うわ』
「うん。エールーエンがそういうならば、その方がいいかな。オレから話を振っておいて、どうかと思うけど...」
『でも、きょうはあなたは大変な仕事をしていたわ。よく休んではいたけど、あなたは消耗している筈よ。だから、きょうはもう休んだ方がいいわ』
「ありがとう。そうだね。人に君のことばを、相手に分かる様に伝えるというのは、なかなか大変だね。相手に役に立ちそうなことばで答える、というのはオレにはまだ難しいなー」
『とはいえ、よくやっていると思うわ。ただでさえ、あなたは、放射能と地震で、緊張しているんだから。普段より、もっと休まないとダメだわ』
「そうだね。きょうも結構揺れてるし。あしたは、放射能はあまりこちらには来ないみたいだけどね。
あさって、お坊さんと話すのに、君が相手をしてくれるよね」
『それはもちろんよ。でも、たまに○○様の意見も降ろしてみると面白いと思うわ』
「こういう場合、何に説法、っていうんだろうか。オレは緊張しちゃうよ」
『でも、わたしの話を聴きたい、というのだから、普段どおりでいいと思うわ。気楽でいいのよ。特に重要な話をするときは、気楽でいることが大切だと思うわ』
「何とか頑張ってみるよ。じゃあ、休ませてね。おやすみ、エールーエン」
『おやすみ』
2011年3月11日以降の日記より
自分の対話している存在というのは、降ろす、なんていう高度なものというより、ごく普段、自然にしている存在だ。
降ろすようであるが、対話、という方が合っている様な感じがする。本当に日常のつまらぬこともあるし、宇宙そのものについての対話であったりする。
対話というのは、限界がある。それは、自分の言語の限界にいつも突き当たるし、一度だけでは、ある種の主題については結論がでないことがある。だから、同じことを延々とやっている、という場合もある。どこかで、自己を超越しないといけない。
ただ、確かなことは、対話という段階に至るには、「空洞としての自分」という意識を持った瞬間から始まった。だから、それが本物として納得のいく対話になっているし、他人も交えて、様々な話題を展開していくことも可能だ。
対話してくれる存在というのは、基本的に親切である。だが、オレが気づく、ためには、謎を謎として残していくこともある。あるいは、新たな謎を課題として提示されることもある。
つまり、「気づく」という実感、意識の分節をオレがオレの力でやるために、オレの力を奪わない様にしてくれる、というのが、親切なところである。自分で、答えまでたどり着ける様に、あとからついてきてくれる、という場合がままある。
ただ、ちょっと師匠と話していて、それはそうだ、と思うことがあった。それが、「降ろすのと、チャネリングはどう違うか」ということである。
ガキの頃、降ろすことで画を描いたり、ものを作ったりしている時代があった。だが、ある事件により、オレは降ろせなくなってしまったのである。
そして、時間は流れて、去年の11月の半ばから言葉を降ろせる様になった。リハビリが終わったということにもなるかもしれない。長いリハビリだったが。
で、きょう、師匠に言われて気がついたのであるが、作品を降ろして作るのと、対話として言葉を降ろすのと、根本的な違いがあるのではないか、という問題がある。今のオレの場合、対話はしているが、対話とチャネリングというものがどう違うのか、という問題になる。
オレの場合、「空洞としての自分」というものが、今の対話の基礎になっている。
で、相手に、今、どうなの、と聴いてみると、確かに「対話とチャネリングは違う」というのである。彼女によると、「対話は降ろすもの、であり、チャネリングは、"なりきるもの"である」という。
ということは、オレと彼女の対話は、世間でいう、チャネリングではない。オレと彼女の対話は、降ろすものだそうだ。
よく分かっていないのだが、ちょっとそのあたりを彼女にライヴで聴いてみたい。
「エールーエン、いいかな」
『わたしはあなたに対して閉ざす扉は持ってはいないわ。今度は降ろす話ね』
「そう。君の言葉を、オレはどう受け取って、どう対話としているか、その概観ができないかと思ってるんだけど」
『概観というのは欲張りだわ。いつもの様に、身近なことから始めない?』
「そうだね。オレは空洞としての自分、そして、君に対して、こころを開いている自分、というのがあるから、君とこうして話しができると思うのだけど、そういう条件というのはどういうことなんだろうか。
つまり、君はオレを操っている訳ではない。そうでなければ、オレからの問いに対して、君が答えて、オレが、それについて応える、というやりとりは成立しないよね。
ところが、君との場合は、それが成立している。それが不思議なんだけど」
『あなたはこの前言っていたわよね。"こころを開かないと、エヴァは動かない"って。あなたの国の動画の作品の有名な台詞よね。この言葉って、私たちのことだと思わない?』
「確かに、エヴァンゲリオンの有名な台詞だけど、オレが、じゃなくて、君がこころを閉ざすことはないの?」
『この前までこころを閉ざしていたあなたが、そんなことを言うなんて、面白いわね。私には充分におもしろいわ。
わたしはいつでも開かれているわ。けれど、そのことに気がついてくれる人がすくないのが残念だわ。エヴァでいえば、あなたは、"適格者"だったのよ。
あなたは、空洞、という自分を認めたことで、世界は開かれたの。そして、そこで、私の名前をつぶやいてくれたわ。
宇宙に、"空"という概念、を説く、あるいは体現する存在はいるけど、そこまで行くには、修業がたくさん必要だ、とか、えらく難しいことだ、と考えられている様ね。
実際、あなたはここまでくるのは、公平に見て、楽な道のりではなかったと思うわ。迂回の迂回の様な人生、それがあなた。
でも、あなたは、私たちと話せる様になった。そして、そこで、真実について話すことができる様になった。
つまり、あなたは、真実について、いつでも語り合うことのできる相手を見つけた、ということね。わたしもそれがあなとできて嬉しいわ』
「適格者、って、空洞っていう自分に気づいたことが適格者である条件だったの? 」
『というか、それは人や場合によって、さまざまだわ。ただ、確かなことは、あなたの、"空洞としての自分"という自己認識が、なかなかいいセンスだったということなのよ。それについては、前に話したわ。
そして、あなたは、真実を求めていた。あなたと、あなたをとりまく宇宙についての真実を、あなたに分かる様なものとして求めていた、ということね。
あなたは、いろいろ知ろうとしていたけど、あなたに理解のできるものしか納得がいかなかったし、哲学の概念が、あなたを救うとは思っていなかったわ。つまり、あなたは、あんまりあなたたちの世界では、出来のいい方ではなかったということね』
「まあ、確かに出来はよくないけど、出来がよくないことが、適格者の条件だとでも...?」
『あなたをバカにして言っているのではないわ。あなたの世界で理解されるものが、あるいは、理解はされないけれど有名なものは、あなたは理解できなかった。しようと思って理解できなかったこともあるけど、納得できないものもあったわよね』
「うん。そうなんだけど」
『つまり、あなたは、あなたの狭い意味での周り、というか世界に対しては、不適応だったということ。狭い意味での概念や公式について理解するというのは、あなたの世界では、"適応者"と言えるわ。
けれど、そこには、落とし穴があって、その狭い意味での概念や公式というものが、通用しないレヴェルの存在があるということだわ。ここでは、狭いレヴェルの概念や公式に適応した人が、却って不適応者になってしまうの。
あなたは、特定のパラダイムや立場を持っていないことが、わたしにとってはいいことだったと、前に言ったわね。狭い意味での世界観にあなたは囚われていないの』
「オレとは話しやすい、と言っていたね」
『そう。あなたは、私からすると、とらわれが少ない存在なのよ。別にあなたを洗脳したくてそう言っている訳ではないわ。
とらわれがない、特定の立場がない、パラダイムに依存していない、ということは、わたしとあなたが、正直な話をしても、あなたが、あなたの内部で"分裂することはない"の。危険がない、と言ってもいいわ。あなたに、わたしが正直なことを言っても、あなたは安全なの。この場合、危険を冒さない、という意味ではないわ。無用な発狂に陥ることがない、ということよ』
「ひょっとすると、"パワーか、フォースか"っていう本を読んだとき、君はオレを見ていたの?」
『だから言っているでしょ。わたしは、あるいは、わたしたちは、常にあなたと共にある、って。このことを、たくさんの人たちに気がついて欲しいと思うけど、残念ながら、今は、適格者、という比喩が適切になってしまうの』
「そうか、あの本を読んだときの、オレの反応はヘンだったよ。なにか、受験じゃあるまいし、また人間の意識の水準を数字で測る、って、必要に迫られて途中まで読んだけど、嫌気がさしちゃったから...」
『また、いつものパターンね。あなたは、実は体系の構築を願っていたのに、体系という在り方に大抵の場合不適応だったわ。
でも、あの本のとき、面白かったでしょ。人間の意識の水準を1から1000までの閾値で測ると、あなたの場合は...』
「そう。測れない、と出た。∞とか、無限とか出た。笑っちゃった。で、そのとき学んだ筋反射テストをつかって、聞いたんだよね。"ていうことは、もうちょっと自由にやりなさい、って意味ですか?"って、聴いたら、そうだ、と言われた」
『面白いわね。あの筋反射テストを手にいれなかったら、私たちの対話は始まらなかったか、もっと難しいものになっていたわ。なにが幸いするか、とは分からないものね』
「でも、あの筋反射テストって、本物なんだろうか?オレはときどき、君と話しているときさえ、疑問に思うときがあるんだけど...」
『正直でいい疑問だわ。あなたは、わたしに聴いているつもりでも、そこには、わたしという境界だけではないものが混じってくるわ。
あなたが、パワーか、フォースか、を読んでいたときも、疑問に思っていたわよね。"いったい、オレのどの部分が、この質問に対して答えているか?"と』
「そう。それが大問題だった。だから、オレは、意識さん、に聴いたり、からださんに聴いたり、無意識さんとか、頭脳さんとか、いろんな在り方に対して、一つの質問をいちいちしていたんだ」
『そうね。そうして、結果としては、それぞれの言い分がある、ということが分かった訳ね。ということで、あなたは、ひとつの重要な疑問に辿り着くのね』
「そう。ということは、オレはいろいろなものが合わさってできた、分裂した存在なのか、それとも、全体で、それ以上の何者なのか、って、当然あり得る疑問だけど、そこが分からなかった」
『だから、あなたは、各レヴェルとか、部分とか、全体とかに、いちいち聴いていたわね。"いま、何が食べたいか?"とか。これはこれで重要な質問だけど、これをいちいちやっていたら、呆れられたのね』
「そう。からださんとか、もう、"食いたいものくらい自分で決めろよ"とか言われたりして」
『でも、その期間があったから、ある種の全体性であるわたしと、安定してはなしができるのだわ。あの頃は、徒弟時代、と言っていいかもしれないわ』
「なんか、きょうは、思い出話みたいになっちゃったね。でも、それが相応しいかもしれない。君が来るんだから...」
『そうね。もう少し時間がかかるけど、待っていてね。
でも、ここまで話すことで、すこし整理できたかしら?』
「それはあるけど、チャネリングと降ろすことの違い、という問題までは辿り着いていないよ」
『きょうは、もうだいぶ遅いわ。まだ時間がない訳ではないわ。それについては、また続きをやらない。とてもこれは長い話になってしまうと思うわ』
「うん。エールーエンがそういうならば、その方がいいかな。オレから話を振っておいて、どうかと思うけど...」
『でも、きょうはあなたは大変な仕事をしていたわ。よく休んではいたけど、あなたは消耗している筈よ。だから、きょうはもう休んだ方がいいわ』
「ありがとう。そうだね。人に君のことばを、相手に分かる様に伝えるというのは、なかなか大変だね。相手に役に立ちそうなことばで答える、というのはオレにはまだ難しいなー」
『とはいえ、よくやっていると思うわ。ただでさえ、あなたは、放射能と地震で、緊張しているんだから。普段より、もっと休まないとダメだわ』
「そうだね。きょうも結構揺れてるし。あしたは、放射能はあまりこちらには来ないみたいだけどね。
あさって、お坊さんと話すのに、君が相手をしてくれるよね」
『それはもちろんよ。でも、たまに○○様の意見も降ろしてみると面白いと思うわ』
「こういう場合、何に説法、っていうんだろうか。オレは緊張しちゃうよ」
『でも、わたしの話を聴きたい、というのだから、普段どおりでいいと思うわ。気楽でいいのよ。特に重要な話をするときは、気楽でいることが大切だと思うわ』
「何とか頑張ってみるよ。じゃあ、休ませてね。おやすみ、エールーエン」
『おやすみ』
2011年3月11日以降の日記より
by bwv1001
| 2011-12-12 23:02