あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

「関心」と「解放」と

 セドナ・メソッドか、ホ・オポノポノか、というのは、以前も悩んだことだが、今回は条件が違う。条件とは、ハイアーセルフ、あるいはハイヤーセルフでもある彼女と繋がっているからである。

 ハイアーセルフと常時接続、というのは、物凄い条件が成立してしまった訳だが、その彼女に聴いてみると、オレの立場から見た場合、彼女は「神聖なる存在 Divinity」と、ホ・オポノポノ的にはなる。その彼女を含めて、オレが成り立っている。

 この神聖なる存在Divinityは、ホ・オポノポノ的には、無限あるいは∞を意味しているという。この話を読んでしまうと、以前、「パワーか、フォースか」という本を読んだときに、オレの意識とか魂のことについて、筋反射テストで調べたところ、数値では測りきれず、「無限、∞」という答えが返ってきたことが思い起こされる。

 それで、意識さんとか、魂さんに、更に聴いてみたところ、「じゃあ、オレは神ですか?」と聴いたら、神だという。ということは、他の人もみんな神ですか、と聴いてみると、みんな神だという。

 と言うわけで、この「パワーか、フォースか」という本を通じて受け取ったメッセージ、というのは、「無限なんだから、もう少し、好きなようにやりなよ」というものであった。

 その後、「空洞としての自分」という気づきがあったときに、呼びかけた存在が、答えてくれた。びっくりした、というより、妙にしっくりきたのである。それが彼女である。

 その空洞としての自分の、「空」であるが、これは、どうやら、神聖なる存在から、インスピレーションを受け取るための、潜在意識、顕在意識、超意識のあるべき状態、として、ホ・オポノポノでは、語られている。

 そういう条件はキレイに揃った訳だが、ここで問題を発見した。「で、オレはどうするの?」ということと、「オレが世界にできることはあるの?」ということである。

 ヘンなたとえだが、ある偉い日本の指揮者が、その師匠になった、やはり偉い指揮者の先生から言われたことがあるそうだ。「(お前は上手に棒は振れるけど、)じゃあ、どんな音楽がやりたいの?」と聴かれて悩んだ、という有名な話がある。

 オレは、ちょっと前に較べると、ずっと条件が整っている。でも、「じゃあ、自分はどうしたいのか?」というと、実はこれが分からない。

 ただ、結論を急ぐと、「自分に対して何かしたい、なんて、特にないんじゃないの?」というところに行き着く。特別に、これがやりたい、ってナイ状態が、今の状態で、「もう、自分のことは、そんなにケアしたり、構ったりしなくてもいいんじゃないか」という風にも思える。

 もし、今、やることがあるとすると、「すれちがう人に、関心を持つ」ということなんではないかと思う。実は、これが大事なことで、すれちがう他人に感心をもたない、あるいは、その他人である人が、他人から関心を持たれない、というのは、荒み、すさみ、と繋がっているんではないかと思う。

 先日、某、あまり普段乗らない電車に乗っていたところ、酷く容貌に恵まれない女性が乗ってきた。いすにすわるのにも、二人分近く必要な巨体だ。手にはお菓子、というか、ジャンクフードの類を持っている。

 で、その人は、お菓子を食っては、手を舐め、その手で鼻をほじっては、その指を舐め、そしてお菓子を食う、ということを繰り返していた。

 オレが隣だったら、まず逃げるところなのだが、反対側に座っているので、ちょっと考える。隣の人たちは、この巨体の人が、こんな気味の悪いことを繰り返しているのに、席を立とうとしない。昼間でそんなに混んでいないのだから、別の席に待避してもよさそうなものだ。だが、それもしない。

 それで考えたのは、この巨体の人に、周囲の人は、関心を持っていないのではないか、ということだ。どうでもいいとか、関係ナイ、というより、そもそも関心がないのではないか、ということだ。

 逆に考えると、もし、この巨体の人は、もっと関心を持たれていたら、こんな容貌になったり、気味の悪いことはしないのではないか、と。ということは、関心をもってもらいたいがために、無意識さんが、この人をこの容貌にし、気味の悪い行為に走らせているのではないか、と思ったのである。

 でも、それにしても、どうして、こんなからだ、容貌、行為になるまで、周囲の人は放置していたのか、ということが気になる。

 駅に着くまで、ほんの何分かのことであるが、このことが妙に気になった。その一つの結論が、「関心を持つ」という態度、という話になったのである。

 セドナ・メソッドとホ・オポノポノからは、ちょっと遠い様な話であるかもしれないが、少なくとも、この二つのアプローチからすると、「すれちがう人への関心」というのは、重要なことではないのだろうか。

 声をかける、とかの前に、関心を持つ、という話がないと、たぶん世界というものは、成立しないのではないか。その助けに、いろんな技法があるんではないのか、と思ってしまうのである。

 実際、ホ・オポノポノをやっている人たちからすれば、そういう人に眼を向けたときに、クリーニングをするんではないかと思うのだが。

 ホ・オポノポノ的な考え方からすれば、この巨体の人の容貌や行動は、それを見ている自分自身の記憶に原因があり、それを現実として再現していることになる。だから、自分自身のクリーニングがそこで必要になる、筈なのだが。

 セドナ・メソッドでもやったけれども、ホ・オポノポノに、筋反射テストを持ち込むと、やはりいろいろ考えさせられる。つまり、いま、ここで、感じていること、眼にしていることが、自分の潜在意識がつくっていることである、としたら、潜在意識のどの部分がそれをつくっているのか。それを筋反射テストとインスピレーションを使って、特定していくことができる訳である。別に、テストなんかなくても、インスピレーションだけでやれる人もいくらもいると思うのだが。

 そんな訳で、家元の正式なやり方に、あんまりこだわらずに、好きなようにやってみている。家元にこだわると、厳密主義に陥ったり、それが原因で、インスピレーションを逃したりするのではないか、と思うのである。

 家元の人だって、いろいろ試行錯誤や相性があって、ひとつの方法に辿り着いたまでのことだ。セドナ・メソッドだって、三つは分派があり、第五の方法も家元が亡くなってから編み出されたものだ。ホ・オポノポノだって、ヒューレン博士の師匠が、今のやり方を開発したんであるし、いろいろやってみて、相性の合うやり方を発見していけばいいのだと思う。

 オレだって、エールーエンと話すのは、工夫したやり方でやっているだけで、そのうちまた変化すると思う。とはいえ、どうやら、その話すところまで辿り着くのが大変らしいが、オレは恵まれていた訳である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2011-12-31 01:13