あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

モノ化→すさみ、から、「関心」へ行けるか?

 震災・原発事故以来、いいことがないが、その影響から、新たな「世界との関わり方」が必要になっていると思う。自分自身も、毎日、その試行錯誤、というか、いろいろな結果を得ている。

 いまのところ、「関心を持つ」ということが、新しい世界への関わり方のテーマの一つである様に思われる。いまの世界の状況が、荒み・すさみ、であるとしたら、それに対する関わり方として、「関心を持つ」という態度があるのではないか。

 関心については、きのうの日記でも書いた。

 関心を持たない状態、というのは、すさみを生み出すだけではないと思う。顔がなくなる、というか、存在の忘却、というか、そういうことがあるのではないか、と日常の観察からは思う。

 駅前で、毎日の様に、行き交う人を観察する。だが、不思議なことがある。顔、というか、存在として、覚える人は、ほとんどいないのである。

 観察するのだから、関心がない訳ではない。だが、覚える人というのは、大抵は、不自由なからだの人なのだ。あとは、よっぽど変わった人くらいだ。

 観察するときは、ただ見るだけではない。あたまの中で、瞬時にデッサンにしてみたり、色をつけてみたり、版画風にしてみたり、写真と風とか、マンガ風にしてみたりする。

 そこまでしているのに、というか、そこまでしているからなのか、覚える顔、姿、という人がほとんどいない。美人の人がいても、覚えてよさそうなのに、覚えない。おぼえない。ちゃんと見ているつもりなのに、である。

 ひょっとしたら、電車から降りた人たちだからかもしれない。通勤のときに、いちいち、顔や個性があったら困るかもしれない。ラッシュに耐えるには、人は人ではなく、モノに変身するしかない。そうでなければ、ラッシュなど耐えられない。自分をモノ化するのだから、他人もモノになる。だから、そこに、コミュニケートが存在してはいけないのである。

 積極的にディスコミュニケートするのが、通勤ラッシュだと思う。大江戸線など、オレは乗っていていつも辛いのだが、誰も、耳をふさいだり、叫び声をあげたりはしない。オレはギエーッとか言って乗っている。仕方なく。

 モノ化するんだから、自己の存在など忘却することなど、当然の結果である。そんな訳で、駅を出る人たちの顔や姿というのはおぼえられないのかもしれない。

 となると、他者に「関心をもつ」というのは、どうしたら可能なのか。

 たぶん、それは、「自分を大事にする」ことからしか、始められないと思う。自分を大事にする、という感覚が分からなければ、他人を大事にすることなどできない相談だろう。

 そういうことがどうやったら可能になるか、という画期的なアイディアというのは、今のところないのだが、とりあえず、自分のできることから始めることにした。

 それは、自分の記憶のクリアリングである。今は、ハイアーセルフと常時接続なので、以前とは違い、自己展開的にセッションするのは、実に快適だ。セドナ・メソッドとホ・オポノポノを同時並行的に使い、それに、筋反射テストを補助としている。

 きょうのセッションは面白かったのだが、また別に書く。ただ、ハイアーセルフとはまた別に、新しい人と繋がることができることが分かった。手放すセッションについて、具体的にいろいろ教えてくれる。面識はないのだが、意識すれば、それだけで繋がることができた。この人も一種のマスターなんであろう。「存在を聴き取ることが大切だ」とエールーエンが教えてくれたが、それが生きた格好だ。

 それから、いままで、からださんとか、意識さんとか、無意識さんをまとめて、自分の総体さん、と呼んでいたが、「自分さん」と呼び方を変えてみたら、これは具合がいい様である。

 自分がもともと持っているものと、学習したことが、うまく展開し始めている。淡々と生活しよう。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-01-01 23:36