あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

思考の密度

 真理というのは単純なものだという。オレはそこまで単純な真理を体感できたことは少ないのだが。

 このところ、見えない存在との対話が当たり前になってしまい、どこまで自分で考えたらいいのか、ということが、実によく分からない。

 彼女にしても、直球勝負で真理を伝えてくれるので、どこまでを、自分で自分がそこにたどり着く努力をしていいのか分からない。

 自分の思考の分が薄まることと、真理を知ること、ということのバランスがよく分からない。ただ、確かなことは、本来すでに知っていることを実感するために、不自由な三次元での生活を選び取っている、ということだ。

 自分の力で問題を解く、というのは、どこまで要求されるものなのか。

 ガキの頃、分数のテストがあったことがある。市販のテスト教材だったが。全部で10問あった。解答できたのは、6問。結果は60点だった。60点というのは、オレの中では、最悪の成績である。

 だが、担任のサッカー狂いの先生は、「いいか、お前、全部合ってるぞ。考え方は正しい。ゆっくり解け」と言ってくれた。

 そのことが妙に印象に残っている。

 それと全く反対の例だが、国語の授業であった。教科書を読まされたのであったが、オレは漢字を書くのはあまり得意ではない。だから、読むときも、一瞬、漢字で間を置く、確認する。

 そうすると、そのときの国語の教師は、オレが読む前に、その漢字を読んでしまうのである。これでは間違える機会さえ与えられない。

 どういうことか、というと、よい教師というのは、生徒の持っている力を奪わない、ということが言えると思う。

 彼女がオレの力を奪う、とは思っていない。というより、むしろ、オレの水準にいつも合わせてくれている。だから、科学も精神性も、われわれよりずっとすぐれていても、彼女と対話を続けることができるのである。

 こうなってみると、オレが教わっていること、あるいは教われること自体が、素晴らしすぎるのかも知れない。

 とりあえず、自分の思考を試すのに、自分さん、たちと対話しているところを、彼女に傍聴してもらってみている。自分さんたちで、意見がまとまり始めたら、そこでエールーエンに感想や意見をもらうのである。

 この方法が、三次元を生きる存在として、最良の在り方かどうかは分からない。だが、いろいろ試してみる価値はあると思う。

 自分一人で思考を煮詰める、というのは、ある意味で楽ではない。少なくともオレの場合は、難しい話になってしまうからだ。難しい話を考えるな、という先輩もいるが、どうもオレには、考えないことは合っていない。「考えるな、見よ」という意味で考えない、というのは、重要なことだが、それは、考えた挙げ句に、気づく、という意味なのかもしれない。

 直視、とか、直観、ということばがあるが、これが求める道ではある。すくなくともエールーエンは、その方向に導いてくれている。

 今までが、考えることが重く複雑になってしまうのが当たり前だったが、それはモノローグが続いたからかも知れない。モノローグの中で気づく、というのは、なかなか難しいことなのかもしれないが、その結果、空洞という在り方に気づいた、ということは言える。モノローグ自体が意味がない、ということではないと思う。

 彼女との対話の中で、直観をぶつける対話にまでなれると、嬉しい。今は話せるだけでも嬉しいのだが。


   2011年3月11日以降の日記
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by bwv1001 | 2012-01-05 00:57