あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

あるがまま、の矛盾

  「よく保つや否や」という言葉があったと思うが、昔、中村元さんの翻訳のブッダの本を真面目に読んだ形跡がある。それは本当に昔のことであるが、全体としてのお釈迦様の言葉の印象を述べてしまうと、簡単なことである。それは、「悟るのはそんなに大変ではないけど、悟った状態を保つというのが難しいのだ」というのが、お釈迦様のいちばん言いたかったことではないか、と思う。

 だから、彼は、「在家は出家には勝てない」という意味のことを言っていたのだと思う。

 何を保つのか、というのは、悟った状態を保つ、ということであろう。

 しかし、オレも、悟った状態に近いとき、というのがある。傲慢に聞こえるかもしれないが、そういう時間は否定できない。今は、自分がどういう状態か、というのを、自分で簡単に判断できるし、その方法を工夫して開発したことと、禅的な空でなくとも、空洞の状態には簡単に至ることができる。意外なことに、空洞の状態のつもりが、「これが禅的な空だよ」と自分さんが教えてくれることが結構多い。ホントかよ、と思って、彼女にも聞くのだが、そうだ、と、その場合は言われる。

 禅的な空、と言ってしまうと、なんだか難しいが、「あるがまま」ということばがある。これがくせ者である。

 どういう風にくせ者か、というと、「あるがまま、であろう」とうっかり思ってしまうとダメなのである。あるいは、「あるがまま、には、何かが必要だ、何かを理解しないと」と思ってしまうのも、ありがちなことだ、と思う。

 あるがまま、は、あるがまま、であって、たぶん、それ以上でも以下でもない。あるがままは、たぶん、幼児とか胎児が経験していることであろう。それが、いつのまにか、あるがままではいけない、とされてしまうことが、この世の悲劇の始まりなんだと思う。

 あるがまま、の状態には、なにも足す必要がないし、引く必要もないのだと思う。もし、敢えて、必要、という言い方があるとしたら、それは、あるがまま「を、見つめる」ということなのだと思う。多分、これが、禅やいろいろな瞑想でやっている作業なのだと思う。

 それと近い作業が、この日常である。ただし、あるがままの状態に対して、例えば先日挙げた、「レスターの物語」など読むと、エクスタシーを伴ったりするものなのではないか、と、思ってしまう。そうなのかもしれないが、そうではないのかもしれない。

 ただ、あるがまま、というのは、難しい、とか、何かが必要だ、欠けている、というのは、自己評価の低さに起因する、ある種の強迫的な思い込みがあるのだと思う。

 そういう視点からすれば、自己評価を高くする、というのは、ある意味では必要かもしれない。空であるのに、「オレがそんな意識を体験できる筈がナイ」とか、うっかり思ってしまうのは、現実、あるいは、いま、ここ、に対する否認であると思う。

 と、ここでも、矛盾が生じる。自己評価を高くしないと、という思い込みである。この強迫性は、やっぱり自己評価の低さに由来する、ということになる。

 ならば、「自分を信じる」と、よくスポーツなどの世界でも言われるが、これも強迫的な発想だと思う。自分に自信がないから、自分を信じる、という裏返しの発想になる訳である。

 そういうジャンルでいうと、最近は、たとえば、インテルの長友選手など、「(ゲームを)楽しめました」というコメントがあるが、たぶん、このあたりが重要なんだと思う。彼の場合は、インテルに選ばれ、結果も残してきている訳だから、自己評価も高いだろう。でも、「世界一のサイドバックになる」と言ってしまうことが、皮肉なことだが、これは「になる」と言っている点で自己評価が低いともいえる。いま、ここで、自分は最高ではない、と思ってしまっているからである。

 最高でも最高でなくても、楽しめる、というのが、これが肝心なことであって、評価、とか、段階、というのをあんまり意識してはいけないんだと思う。

 自分が、「今、禅的な意味で空の状態ですよ」と、自分さんからも、彼女からも言われているときは、まだ、うっかり疑ってしまったりするが、そういうときには、無我をテーマに画いている作品などがイメージされる。これはいいことであると思っている。それがあると、本当の空ではないのかもしれないが。

 あるいは、幼児の姿が浮かんでくる。ニーチェだって、いちばん強いのは赤ん坊だ、と言っている。そこまでいい線を行っていながら、彼は発狂してしまった、というのは、本当に残念なことである。それがなければ、西欧の歴史だって、もうちょっと変わっていたかも知れないなどと思う。

 あるがまま、というのは、結構いろいろなワナが仕掛けられている。別に悪意があって、仕掛けられている訳ではなかろうが、自分が勝手にワナにはまってしまうだけである。

 将棋の名人戦で、「名人は強くはない。相手が勝手に転んでいるだけだ」と分析して挑戦した森鶏二さんがいたが、たぶん、あるがまま、という言葉のトラップというのは、そういうことなのではあるまいか。

 とりあえず、オレの場合は、「自己受容」と「手放す」という取り組みを通じて、少なくとも空洞、ときに禅的空、くらいの感じをさまよっている。

 ただ、オレの場合は、対話をしてくれる存在に恵まれている、というのは大きいが、もちろん、ハイブリッド・セドナメソッドとか、ホ・オポノポノという方法も大変に役立っている。

 あるがまま、を体験したとしても、なんかとてつもない状態になる訳ではない。あるのかもしれないが、それを「求める」というのは、また自己矛盾に陥ってしまう。

 あるがまま、という言葉は、ある意味で、手持ちの言葉にしない方がいいのかもしれない。却って、その「言葉・概念に取り憑かれる」恐れがある。

 あるがまま、のときは、それを「味わう」だけである。


    2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-01-30 23:26