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あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

人はなぜ、人の話を聴こうと結論するのか

 訳の分からない疑問であるが、題名の通りである。

 人はなぜ、人の話を聴こうとするのか、そう結論するのか、という問題である。

 これに対する妥当な答えというものを持ち合わせていないから、こうして書くのである。

 この問題は以前から意識していることであるが、最近特に「無努力」という言葉に行き着いて、その問題に行き着いたという面がある。

 無努力、という話から始めると、無努力とは許されぬ、という人もあると思うが、大切な視点であると思う。単純に言ってしまうと、自分の持っているもので生活、やりとりをしていく、ということであると思う。

 無努力、という言葉に嫉妬や敵意を覚える人がいるとすれば、それは、自分の在り方と才能に気づいていない、ということが、理由の一つとして考えられるだろう。

 無努力、というのは、自分がいちばん得意な分野でやりとりをする、という意味であると思う。あるいは、何もしない、という在り方を含むであろう。

 だが、日常的に搾取を、国家なりなんなりに受けている立場の人にとっては、無努力という言葉自体が許せないのであろう。断っておくが、無努力と、たとえば、金融工学の様なものは、直接的な接点はないと思う。

 あるいは、無努力は、無気力とも違うと思う。無努力は、無気力より積極的な概念であると思う。

 人の話を聴く、という態度に行き着いた人たちは、多分、無努力という在り方に繋がっているのだと思う。

 人の話を聴く、というのは、難しいことである。こんな難しいことを、自らすすんでやる、というのは、無努力という語感からは遠い気がする。だが、たぶん、人の話を聴く、という態度、というのは、本質的に、無努力という態度でなければ、成立しない関係なのであるのではないか。

 人の日常によくあることだと思うが、誰かの話を散々聴いて、それで、思った結果を得られないで、悔しく思う、ということはあるのではないかと思う。

 でも、それは、無努力ではなく、多分、努力の世界である。ムリをしていると言ってもよい。

 話を聴いて、思った結果になる様に、と思うことが、傲慢である。必要なことは、いま、ここで、誠実に聴く、ということだけであって、それ以上のことではない筈だ。ましてや、相手をコントロールしようということは、論外である。

 それなのに、人の話を聴く、という態度の志望者が出てくる、というのはどういうことか。プロでいうなら、カウンセラーとか、コーチとか、サイコセラピストとか、ケースワーカー、という役目に当たるだろう。

 だが、そうした人は、プロを目指す訳でもなく、自分という在り方から、お金にもならない、聴き手、となる役割をなぜ選ぶのであろうか。

 今日は、これについては、結論を述べるつもりではない。だが、この傾向について、少し書いておきたいと思っただけである。答えが出るのはまだ先のことであろう。

 自分が話している相手は、地球と同じ尺度で、オレの話を聴いてくれているのかどうか分からないので、これは例外にした方がよさそうだ。実は同じ動機があるのかもしれないが。

 セドナ・メソッドの講習会に行って、ちょっと考え込んでいることの一部である。


   2011年3月11日以降の日記より
by bwv1001 | 2012-02-17 23:04