あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

私を思い出すために生まれてきた

 師匠が長話につきあってくれた。結果的に、オレの歴史を振り返る作業になった。ファシリテーターとして、師匠はいてくれたという格好になる。

 二人であらためて驚いたのは、時間軸というのは、普通とは逆に、未来の方から流れてくる、という実感であった。そして、死んで戻るときに、またひとつの存在に帰っていくのだろう、という話をした。

 師匠からは、このオレがいう「空洞」とは何であるのか、どんな感じであるのか、という質問を受けた。これが、意外と、一言では分かりにくいイメージである、ということが分かった。たとえば、自分が昔の日本の家やお寺の様な、庭と縁側で繋がって開放された空間のイメージである、ということ、あるいは、楽器の空洞のイメージである、ということばだけでは足りない、ということに気がついた。

 どこが空洞のイメージが理解するのに難しいか、というと、主体という在り方を前提とすると、理解がしづらい、ということである。

 つまり、師匠は、オレが家屋やお寺の空間になる、とか、楽器になる、ということがどういうことか、というのを想像するのが難しいらしいのである。

 例を挙げて話すだけでは、簡単に想像できる意識状態ではない様だ。これは、表現を考えていかなければならない。


 空、と、その意識状態を表現するには、論理的な矛盾がある。そこには主体もまた消失しているからである。そういう意味でも、空洞、という言葉は便利であった。

 これは、一日のうちに何度かやる作業なのだが、筋反射テストを使って、「いま、空洞ですか?」という質問をする。質問の相手は、全体的な自分を総称する「自分さん」という他者を設定している。限りなく主体に近い他者である。

 そこで、うん、という答えが来ると、更に「空ですか?」という質問をする。論理的にはおかしいのだが、限りなく他者に近い自分さんは、うん、とか、いいえ、と反応する。

 うん、の場合は、更に質問をするが、いいえ、の場合、「それでは、空にする必要がありますか?」と聴く。ある、というと、自分のどこが過剰になっているのか、直感的に捉えて、この部分ですか、と聴く。そうだ、ということにもなるし、他にもありますか、と続けて聴き、過剰な部分を解放する。

 その作業は、二分もかからないが、直感が勝負の分かれ目となる。不成功に終わることは、いまのところ、ナイ。

 更に、自分さんではなく、ホ・オポノポノでいうところのウニヒピリさん、あるいは、深層意識さんに、同じ様な質問をしていく。これも、自分さんに対する作業の様な手順で解放する。

 これが一段落すると、常態としての自分さんが整う訳である。整えることを目標にしている訳ではなく、自由であることを目標としている。とらわれがなく、注意がはたらく状態といったらよいだろうか。この状態を空洞と呼んでいいと思う。

 何事も、そのままにしておくことができる状態が、空洞、ということになる。

 ここまで作業をしなくとも、自然と空洞になっていることももちろんある。

 セドナ・メソッドやホ・オポノポノの影響は受けているが、空洞という感じ方は、オリジナルかもしれない。禅的空、というのとは、また違うと思う。だが、自分さんが、禅的空を望む場合もある。ただ、自分としては、禅的、ということに対するこだわりはなく、専門的な知識や体験はない。

 とらわれが少なく、なにごともそのままにしておける、自由な意識の状態を、空洞、と呼んでいいかもしれない。

 とはいえ、普段はそんなに面倒に考えないで、自分さんや、深層意識さんなどの言い分を聴く、という形で、作業をしているだけのことである。

 そういう意味では、最近、そのかわりに、思考の密度が下がっているのだと思う。しかし、思考というものが、ある種のとらわれであるとしたら、いまのやり方は、そんなに間違っているとも思えない。

 また、そのうち、新しいやり方を発見するかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-19 23:06