あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

敗戦記念日

 若い人は、米国と日本が戦争をやったことを知らない人も結構いるらしいが、小中高と、現代史を捨てる社会の教師の責任は大きいと思う。ひょっとしたら、現代史を教えると、自分の立場がやばくなる教師が多い、ということがあるのかもしれぬ。

 で、よく分からないのが、8月15日、というのが、終戦記念日、ということである。何で敗戦記念日と呼ばないのか。戦争に負けたことくらいきちんと認識しないで、何が国家だ、と思うのは、毎年のことである。

 自分が通う合唱団の練習場所、というのは、たいてい3月の東京大空襲の遺体がたくさん眠っていると思われるあたりである。特に公園のあたりは、特別な雰囲気がある。深川小学校のところの公園など、霊気を感じる。

 そんな大虐殺のあった地域に、週に一度は活動をしに行っているのだから、いつもそのことを考えざるを得なくなる。

 あるいは、ガキの頃から、散々、原爆と空襲の話ばっかり聴かされていたので、もう立派なトラウマである。最近はずいぶんよくなってきたが、今でも空襲の夢はよく見る夢である。

 それくらい、自分の中では、戦争はリアルだ。何かのときに、夢の話をすると、他人からみると、細部にわたってリアルだという印象を持たれる。

 幼児のころ、早い時期におぼえ単語の一つが、「焼け野原」である。寝際になると、親が空襲の話を始めるのである。しかも毎晩である。こういうのは、ある意味からすると、虐待行為である。

 戦争体験には、更に面倒なことがある。戦争を体験していない人間はダメだ、という考えを吹き込まれることである。そういう馬鹿げたことは、どうもオレだけの体験ではないらしい。

 いつまで経っても、戦争をやっていた人間の方が偉い、戦争の被害にあった人間の方が偉い、という、異常なコンプレックスを植え付けられるのである。それが教育だと思われている時代があったのではないか。

 でも、それは、単に戦争を体験した人間、あるいは世代が、自己の立場を作ろうとしているだけで、教育と呼べるものではない。その意味では、戦争体験を語り継ぐ、という運動というものは、自分はあまり賛成できない。最低でも、戦争とは別の価値を、自分の歴史に見出しており、戦争体験を乗り越えた人間しか、子供に戦争を語ってはいけないのではないか。

 そんな訳で、反戦、というのは、実は、戦争を克服できていない人間の立場であって、そんなに褒められたものではない在り方なのかもしれないのである。

 オレの場合は、戦争体験を克服できなかった人間に、いいようにやられた、という二次被害を被っていた訳である。オレは戦争はやりたくないが、オレを戦争体験で虐待した親とその世代を恨んでいることは否定できない。恨んでいるというよりは、軽蔑している、という表現の方が近いかもしれない。

 戦争のときは天皇にはまって、戦争に負けたらマッカーサーにはまる人間のどこを信用したらいいんだ、と思う。

 せめて、終戦記念日ではなく、敗戦記念日と改めないと、トラウマと戦ったオレが浮かばれない。たった一人の孤独な戦いだ。誰も知らない戦場があった、ということである。


   2011年3月11日以降の日記より
[PR]
by bwv1001 | 2012-02-21 20:57