あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

レヴュー:「自分から自由になれるゼロ思考」佐田弘幸著

 文字数の関係で、レヴューに載せられなかったので、日記に記す。

 佐田弘幸 「自分から自由になれるゼロ思考」

 題名は、ミスチルの歌詞を思い出してしまうものだが、ここでいう「自分」とは何だろうか?

 本書からすると、自分が思い込んでいる、あるいは誰かに思い込まされている、自己イメージ、と言ってもよさそうである。その自己イメージが、あるがままの心を不自由にしている、傷つけている、ということになるだろう。洗脳や虐待や教育の問題と関係している。

 言い方を変えると、あるがままの自分というものがあったとして、今、自分が感じている自分との距離感を測ってみる、というのが、本書のアプローチである様に思われる。

 だが、自己啓発の分野に於いて、あるがまま、というのは、非常に微妙な言い回しである。あるいは、あるがままの自分にたどり着くには、自己評価がポジティヴでなくてはならない、あるいは、ポジティヴな思考をみつけなくてはいけないという。

 ポジティヴ、あるいはポジティブ・シンキングというのは、危険な要素をはらんでいる、というのが、本書の最初の指摘である。現実に、ポジティヴという言葉にとらわれ、自己啓発難民になっている人々は、存外多いのではないかと推測される。著者の講座のもとにも、そうした人々がやってくる、という。

 この本に登場する方法は、内観(法)、アファメーション、意図的なシンクロニシティへの誘導、がセットになっている。中でも、この内観、というのが、この佐田式の肝であると思われる。

 佐田式の内観(法)というのは、ポジティヴではない感情も認めて、自分の力ではなく、他力本願という形で、願いをかなえることはできないか、というやり方である。もし、ポジティヴでも、自力でなくとも、自己実現の道はあるというのである。

 多分、巷にあふれている自己実現の方法は、日本人(のDNA)に合わないやり方で語られているのではないか、というのが著者の視点である。あるいは、日本人に合った宇宙観でアファメーションができないか、というのが、著者のアプローチである。

 例を挙げるなら、有名な本だが、ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」第一巻にみられる一節がある。それは、「お金が欲しい」と言っているから、いつまでもお金が入らないのだ、という考え方である。神と称する存在がそう言うのだから、無視もできない。そこで、神は、「自分にはたくさんのお金がある」という言い方をすすめるのである。

 どういうことかというと、一つは、「宇宙というものは、肯定的なメッセージしか聴き取れない」ということと、「宇宙というものは、いま、ここ、しか理解できない」というのである。だから、お金がもっと欲しい、と願えば、宇宙の側の理解としては、「はい、あなたは、お金がもっと欲しい」ということになるのである。

 少し分かりにくいかもしれないが、「お金が欲しい」といえば、宇宙は、「お金が欲しい(という欲望)」を実現させる、というのである。宇宙は、リクエストにはきちんと応えるものだから、それでは、お金が欲しいという(心理)状況を延々とかなえる、という。

 この考え方が、多分おおくの自己啓発書の根幹になっていると思われる。偶然にいろいろ調べてみた、引き寄せの法則、というのは、これがベースとなっている。

 著者は、こうした考え方ではなく、日本人(のDNA)に合ったやり方が必要だと考えている。それが、ポジティヴではない自分を認め、求める自分の在り方をサポートしていこう、という。

 内観で自分の実情を否認せず認め、観察する、という作業を経て、それに合ったワンオフもののアファメーションを作成する、というのが基本の作業である。この繰り返しの作業が、著者が提唱する「ゼロ思考」と言えると思う。

 その先に、シンクロニシティのコントロールという作業があるが、これが個人的にはよく分からない。というのは、著者の言葉には、DNAという言葉が散見されるが、DNAというのは、われわれを規定するものである。もう一般的な認知は得ていると思うが、DNAというのは、実はある種の生命体であって、生物というものは、すべからくDNAの乗り物である、という説がある。

 とすると、如何に内観し、アファメーションを工夫しても、DNAが規定する檻の中からは出られない、ということになる。逆にいうと、生き残りは、快楽に結びつく、ということがDNAのプログラムであるから、その快楽を利用して、自己実現を図る、というのが、佐田式の考え方であろう。

 ところが、そこに、シンクロニシティの問題が持ち出される。もちろんそれは、集合的無意識という問題を論じ、それを如何に制御するか、ということが語られている。

 だが、集合的無意識とDNAとは、果たして折り合いをつけられるものなのであろうか。少し古いが、故・ライアル・ワトソン博士は、人間という存在は、DNAの命令から抜けだそうと、夢や無意識を通じて、DNAの司令以外の価値を求めようとしているのではないか、という仮説を論じていた。つまり、集合的無意識、しかも、その意図的なコントロールとなると、DNAと対抗する、という考え方となってくるのである。これが本当の自己超越、と言ってよいと思う。少なくとも、生命としてのわれわれを考えるとそういうことになるのではないか。(とはいえ、われわれ人間のDNAというのものは、殆どがまだ目覚めていない状態でもある。)

 そのあたりの明解さを、本書は欠いていて、全面的に納得できるものではない。だが、DNAの規定する範囲、価値観を利用して、自己実現を図る、自己との折り合いをつける、という向きには、内観とアファメーションについては参考になるかもしれない。この本で提唱されているシンクロニシティは、すこし本の構成から考えると唐突に思える。必然性を感じられない。

 ただ、挙げられている例については、DNAの規定する命令や範囲を超えるものではない。少々俗なシンクロニシティ論、と捉えれば、その部分はそれでよいのかもしれない。

 本と論の構成としては、そうした疑問があるが、狭い意味での自己超越、あるいは、ポジティブ・シンキングが原因となる自己否認や自己啓発難民化という問題のなかでは、意味のある本であるかもしれない。

 ポジティブ・シンキングについての反省と問題の所在を明確にする、という点では、参考になる本である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-17 23:40