あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

洗脳を解く作業

 日頃から、洗脳を解く作業をしたり、方法を調べたりすることが多い。特に原発事件以降は、もう日本国は日本人を守るつもりもなく、税金だけが目当ての詐欺システムだということは、多くの人が理解したことだろう。だが、その日本国を、詐欺や背任行為で訴える人がどれだけいるのか、その実態は知らない。多分、まだ、自分は日本人だ、という洗脳から、多くの人が抜け出ていないから、日本人をやめるのではなく、政府や東電に対する怒りで、ことは止まっているからだろう。

 自分で自分の洗脳を解く、というのは、なかなか難しい作業である。基本としては、自分がどういう状況にあるのか、ということを調べて実感し、自分の現実を認める、という作業からスタートする。例えば、自分は日本人だ、という認識も、何をもって日本人であるのかという根拠がないのだから、自分が日本人と思わされているのは、洗脳されている、ということである。

 最近、幾つかの方法を組み合わせて、自分流に、有効と思える脱洗脳方法に行き着いたのだが、万人向けというものではない。そもそも、洗脳を解く、というのは、現実を認める、という作業から始まるから、普段、現実を否認して何とか生活している普通の人にできる作業とは思えない。

 例えば、電車に乗って、狭い空間の中に、たくさんの人が閉じ込められている、という現実に適応していないと、仕事にも学校にも行けない、ということになる。電車の空間は、不快な現実を「否認する」という精神の動きがあって、初めて成り立つものだ。

 年始は、いきなりオウム真理教のメンバーの自首、というショッキングな報道から始まった。あの地下鉄サリン事件は、単にサリンだったから、被害が大きかっただけではないと思う。

 地下鉄の車両、あるいは駅構内という空間自体が、現実を否認することによって成り立っている空間だったから被害が甚大だったのではないかと想像する。被害者の方々は、自分では、「あれ、おかしい」という感覚がなんとなくあった筈だ。だが、その直感を、例えば、「調子悪いけど、出社しなくては」という心理でもって、不調、違和感への直観を押し殺してしまう。あるいは、電車はそもそも不快な空間だから仕方がない、と思ってしまう。そんな朝のラッシュの否認の心理を突いたのが、地下鉄サリン事件であったと思う。

 先日、自分も地下鉄で怖い経験をした。朝ほどは、混んでいなかったが、走行中に揮発性の臭気があったのである。

 オレは、「サリンだ!」と叫びたくなった。危険を認知した。しかし、サリンとは無臭だと聞いている。でも、ここで何かしなければ、車中の俺たちはどうなるんだ、という恐怖感に襲われた。とりあえずそれらしいものがないか、と探す。しかし、走行中である以上、今、車外へ脱出することは不可能だ。

 車内をよく見ると、原因が分かった。オバハンがマニキュアを塗っていたのである!!!全く、オバハンというのは、社会性に欠け、自己中心的な化け物である。

 若い人にも言いたい。電車でマニキュアを塗るのはやめましょう。迷惑です。できれば化粧をするのもやめましょう。車内で化粧をして、他人に見せている、というのは、「私、いま、誰でもいいから、ヤリたいの」と言っていることと同じです。白人が見たら、一層そう思われるでしょう。そのあと、何があっても、知りません。

 本題からずれたが、あの時は怖かった。本気でサリンの様なものだ、と思った。幸いにして、大バカ者のオバハンの仕業と分かったのだが、オバハンには何も言えなかった。怒りで一杯だったのだが、自己中が本質であるオバハンには、何を言っても通じないのが厳しい現実である。

 最近、一層女性に興味がなくなってきたが、たとえキレイな人を見たとしても、「どうせオバハンになるんだな」と思うと、何のロマンもない。せめて自分がオジサンにならない様に、注意を払うことしかできない。あんたも所詮はオジサンでしょ、と言われればそれまでだが、ならば、と言って、オバサン予備軍と結託する、という気には全くなれない。せいぜい、美しい、と思った瞬間だけ、ゲーテにならって、「時を止まれ。美しい」と一瞬思うだけで終わりである。

 どうもオバサンの話をすると、そっちに行ってしまうのだが、何とか本題に戻れぬものか。

 オバサンから入ってしまったが、美人で物腰のある人だとしても、「どうせ人間だから死ぬんだな」とか、「焼いてしまえば骨だよな」と思えば、それまでである。自分もまたそうなんである。はかないのである。

 形あるものは、壊れる、あるいは、死ぬ。そのことを頭の片すみに置いておくだけで、ずいぶんと洗脳されている状態から抜け出すきっかけ作りにはなる。そう思えれば、あるがまま、という状態を体験しやすくなる。

 だが、最終的には、たぶん、多くの人が、日々の苦しみから逃れたい、あるいは、苦しまずに死にたいと思うだろう。そのことに立ち向かったのが、お釈迦様である。だが、その先までお釈迦様は考えたのか、志向したのか、というのは、自分にはまだ分からない。

 オバサンがオバサンであることの苦しみというものを持っているのかどうか分からないが、多分、ある時点から、自分のことが、もうどうでもよくなる、というのが、オバサン化の始まりであろう。だが、小学生でも、オバサンの感性で生きている人もいるし、多くのオバサンは、オバサンであることの意味について、自覚がない、というのが現実であろう。もうどうでもよくなる、という脱価値化がオバサン化という現象である。

 なぜ、それが可能になるのか、というと、「自分を自分でみつめなくなる」ことから始まるのだと思う。それは姿だけの問題ではない。精神の問題でもある。こころの問題でもある。

 そのこころのすき間に、新興宗教とか入ってくると、厄介である。オバサンは、はまりきる存在であるからだ。どうでもよくなったところに、宗教という価値が入ってくると、「それが自分だ」と思ってしまうのである。はじめの話に戻ると、これが洗脳である。

 脱価値化し、精神の空洞を「埋めよう」と思って、行き着く先の一つのパターンがこれである。逆にいうと、空洞を埋めようとしないことが、洗脳されないためには必要なのである。だが、空洞を空洞のまま感じる、味わう、知る、ということをしないのが、大多数のオバサンであろう。

 空洞の難しいところは、うっかり、「埋めなければ」と思ってしまうことである。だが、埋めないというのが、これはこれでまた難しい。埋めずに空洞と対峙するには、死と向き合わなければならない。実際、マンションの一室で、原因不明の女性の自殺、などというのは、最近はあまり報道されないくらいに普通であろう。その死因のいくらかは、空洞と向き合った結果、自分という根拠を見いだせず、死を選んだ、というものであると思う。

 空洞、という実感というのを、感情でいうなら、圧倒的な「寂しさ」である。自殺を選ばないにしても、ちょっと昔の言葉でいうなら、キッチンドランカー、がそうであろう。あるいは、リストカットにいくかもしれない。過食嘔吐もそうかもしれない。これらは、寂しさに耐えきれず、かといって、死を選ぶこともできない人たちの訴えである。自分を傷つけることで、空洞を埋めようとしているのである。

 洗脳、という視点からすると、洗脳が解けたら、そこにあるのは、「空洞」である。あらゆることの根拠が無くなってしまったあとに残るのが、空洞であり、大多数は、圧倒的なさびしさを味わうだろう。オレは、政府や東電に怒りをおぼえる反面、日本という洗脳を意識しているので、実は「もういいや」と思っている。言い方を変えると、政府と東電に怒りをぶつける、ことくらいが、日本との繋がりなのである。実際、日記も書かなくなった。もう、日本という幻想、洗脳から降りよう、そして、空洞そのものを自分の本質としよう、というのが、日常なのである。少なくとも、原発事件以降はそうである。

 いま、自分の日常は、洗脳を解くための時間が増えている。ただ、その方法に致命的な欠陥がある。それは、ある価値・幻想・洗脳を別のものに置き換えることは実に簡単だが、まっさらなキャンバスにする、ということは、実に難しい、と思うのである。だから、想像するに、ブッダという人は、本当に偉大だったのだと思う。価値観を書き換えることは簡単だが、一切は空である、という認識に立つというのは、実に難しいのである。

 個人的には、空洞、という体験があり、そこから世界への新しい拡がりを感じているのだが、それもまた空なのであろう。

 直視すれば、何もない。そのとき、それが、そういうものとしてそのまま受け取れるかどうかが、一つの分かれ目である。更に、それが、ずっとそうあることを、そのまま受け止めていられるかどうか、という難題がある。

 やはりブッダという人は偉大だったのだと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-05 23:58