あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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 お料理する生活が、夢としての一つの選択肢として消えてしまった。もちろん、それは、原発事件によるものである。政治家も企業も官僚も、それに対して責任をとるつもりもなく、むしろ、自己を防衛し、原発を推進しようという手段に出ている。

 自分は、お料理の本を集めていたのだが、金銭的な問題とは別に、もう楽しんでお料理をする気にはなれなくなった。きのうははかせなべで、カボチャさんとズッキーニさんのカレーを作ったのだが、それも何か空しい気がする。

 お料理が楽しくできない、という重大な問題を、政治家や官僚や東電はどう考えているのだろうか。東電に勤める父親や母親を持つ子供はどうしているのだろうか。クラスから、「とーでん、とーでん」と言われてイジメにあっているのだろうか。政治家の子供は、親が政治家というだけで、威張っていられるのだろうか。官僚を親に持つ子供は、「お父さんは、会社でなにやっているの?」と聞かれて、誇りを持って答えられるだろうか。

 もう、いい加減に、馬鹿げた茶番劇はやめるべきなのではないか。小出助教の言葉を借りれば、日本人は、どこかに避難しなければならない、という状況なのだ。だが、そうした現実も、日常のなかで忘れられようとしている。

 忘れることで生きていける人はいい。だが、その忘れることで生きていく人は、他の人に対して、忘れることで何をしているのか。

 自分にはよく分からない。なぜ、たまたま日本に住む、いわゆる日本人は、よくもこう物忘れが得意なのか。だから、奴隷でいることに耐えられるのだろうが。

 自分は、忘れないために、奴隷にならないために、今が戦場であることを認識しておくために、こうしたことを書いている。

 可哀想なのは、なんと言っても、子供たちであり、人間とは違う生き物さんたちである。数年後には、結果は形になって現れるであろう。

 NHKは、文明論として、原発は人間の本性の結果として、原発事件を処理しようとしていた。荒俣宏氏が出ていた番組である。だが、原発ついて、文明論ではなく、本来、それぞれの人が判断を下す義務があった筈である。判断をした人もいた筈なのだが、権力は、権力を以て原発を推進した。ならば、責任の所在は明かであろうが。

 それすら明かにせず、虚構の安全、虚構の平和を生きていくことに、いったいどれほどの価値があるというのか。

 お料理一つにしても、楽しめない新しい時代、逃げられても、逃げられなくても、苦しい。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-07 23:06

ひさびさに魚を食う

 このところ、殆ど海のものは食べていなかった。もちろん、原発の汚染による害を危惧してのことである。だが、ホ・オポノポノを使ってクリーニングする、という対処をして、食ってみた。

 食ったのは、近所のスーパーのさかなやさんで出ていた、鰯さんの握り。八カンで350円。それでも、自分としては贅沢である。半値ではなく、350円の特別サービス品だ。

 産地はどこかというと、宮城沖、ということで、放射線の懸念はある。しかし、まだ、産地が正直に書いてあるだけマトモだ。正直に書いてあることもあって、買ってしまった。

 武田教授の最近のニコ動では、どういう訳か、マグロさんとカツオさんだけは、放射能汚染が検出されていないという。これが、生態系からすると、謎だという。最後にいちばん濃縮されるところだと、素人も想像してしまうところだが。

 鰯さんは、今年、このさかなやさんでは、初めて出た。昨年も、夏に一回だけ、二十カンというのが一度出たきりで、去年は一度、今年は初めて、ということになる。

 最近食っているものといえば、ほとんどトルコ産パスタに納豆と玉子、というパターン。これをほぼ毎日一食。あとは、38円の豆腐を一食摂るか摂らないか。お米は大事に使っている。

 麺類は、ホ・オポノポノ的には、食うだけで、人間の無意識の記憶をクリーニングする働きがあるという。それもあるが、パスタは、トルコ産のものは、1㎏198円、というのが日常的に近所で手に入る品物なのだ。四食か五食は食える。二束あれば、九食は食える。

 燃料も節約している。以前は、圧力鍋でパスタを煮込んでいたが、それを上回る節約を可能にしているのが、はかせなべ。お湯が沸騰したら、パスタを入れて再沸騰させ、あとは、火を止めて保温調理すること、パスタに書かれている時間どおりに。はかせなべは、普通の保温調理鍋、あるいは真空調理鍋と違って、丸洗いできるから、臭いもつかず、清潔さが保てる。

 本当はそばかうどんにしたいのだが、このトルコ産パスタが最も節約になり、腹持ちがいいから、飢えと戦わずに済む。

 もちろんお野菜も食いたいのだが、お野菜は、いちばん高くつくので食えない。でも、たまにはカレーくらい食いたい。明日はごはんも炊いて、カレーを食ってみようか。ウチのカレーは、友人や先輩たちに出せるくらいに旨い。はかせなべとその研究を極めたレシピのおかげである。

 これくらい食生活が厳しいと、たまに食えるお肉とか、お魚とか、お野菜はとても美味しく感じられる。食った喜びがある。かといって、いつものパスタも決して悪くはない。だから、同じものを食っていられるのだ。

 幸福感を実感できるのは、実は、耐乏生活があるからだと思う。きょうの鰯さんの握りも旨かった。というか、旨く感じられるのだ。酢飯なんか最高に旨い。

 明日はカレーを作ってみよう。体調が許せば。ズッキーニさんとかぼちゃさんのカレーなどは、最高に旨い。

 こうなってみると、人間、何が幸せか、というのは分からなくなってくる。極貧というのは、実は今や、最高に贅沢な暮らし方であるのかも知れないのだ。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-06 23:17

洗脳を解く作業

 日頃から、洗脳を解く作業をしたり、方法を調べたりすることが多い。特に原発事件以降は、もう日本国は日本人を守るつもりもなく、税金だけが目当ての詐欺システムだということは、多くの人が理解したことだろう。だが、その日本国を、詐欺や背任行為で訴える人がどれだけいるのか、その実態は知らない。多分、まだ、自分は日本人だ、という洗脳から、多くの人が抜け出ていないから、日本人をやめるのではなく、政府や東電に対する怒りで、ことは止まっているからだろう。

 自分で自分の洗脳を解く、というのは、なかなか難しい作業である。基本としては、自分がどういう状況にあるのか、ということを調べて実感し、自分の現実を認める、という作業からスタートする。例えば、自分は日本人だ、という認識も、何をもって日本人であるのかという根拠がないのだから、自分が日本人と思わされているのは、洗脳されている、ということである。

 最近、幾つかの方法を組み合わせて、自分流に、有効と思える脱洗脳方法に行き着いたのだが、万人向けというものではない。そもそも、洗脳を解く、というのは、現実を認める、という作業から始まるから、普段、現実を否認して何とか生活している普通の人にできる作業とは思えない。

 例えば、電車に乗って、狭い空間の中に、たくさんの人が閉じ込められている、という現実に適応していないと、仕事にも学校にも行けない、ということになる。電車の空間は、不快な現実を「否認する」という精神の動きがあって、初めて成り立つものだ。

 年始は、いきなりオウム真理教のメンバーの自首、というショッキングな報道から始まった。あの地下鉄サリン事件は、単にサリンだったから、被害が大きかっただけではないと思う。

 地下鉄の車両、あるいは駅構内という空間自体が、現実を否認することによって成り立っている空間だったから被害が甚大だったのではないかと想像する。被害者の方々は、自分では、「あれ、おかしい」という感覚がなんとなくあった筈だ。だが、その直感を、例えば、「調子悪いけど、出社しなくては」という心理でもって、不調、違和感への直観を押し殺してしまう。あるいは、電車はそもそも不快な空間だから仕方がない、と思ってしまう。そんな朝のラッシュの否認の心理を突いたのが、地下鉄サリン事件であったと思う。

 先日、自分も地下鉄で怖い経験をした。朝ほどは、混んでいなかったが、走行中に揮発性の臭気があったのである。

 オレは、「サリンだ!」と叫びたくなった。危険を認知した。しかし、サリンとは無臭だと聞いている。でも、ここで何かしなければ、車中の俺たちはどうなるんだ、という恐怖感に襲われた。とりあえずそれらしいものがないか、と探す。しかし、走行中である以上、今、車外へ脱出することは不可能だ。

 車内をよく見ると、原因が分かった。オバハンがマニキュアを塗っていたのである!!!全く、オバハンというのは、社会性に欠け、自己中心的な化け物である。

 若い人にも言いたい。電車でマニキュアを塗るのはやめましょう。迷惑です。できれば化粧をするのもやめましょう。車内で化粧をして、他人に見せている、というのは、「私、いま、誰でもいいから、ヤリたいの」と言っていることと同じです。白人が見たら、一層そう思われるでしょう。そのあと、何があっても、知りません。

 本題からずれたが、あの時は怖かった。本気でサリンの様なものだ、と思った。幸いにして、大バカ者のオバハンの仕業と分かったのだが、オバハンには何も言えなかった。怒りで一杯だったのだが、自己中が本質であるオバハンには、何を言っても通じないのが厳しい現実である。

 最近、一層女性に興味がなくなってきたが、たとえキレイな人を見たとしても、「どうせオバハンになるんだな」と思うと、何のロマンもない。せめて自分がオジサンにならない様に、注意を払うことしかできない。あんたも所詮はオジサンでしょ、と言われればそれまでだが、ならば、と言って、オバサン予備軍と結託する、という気には全くなれない。せいぜい、美しい、と思った瞬間だけ、ゲーテにならって、「時を止まれ。美しい」と一瞬思うだけで終わりである。

 どうもオバサンの話をすると、そっちに行ってしまうのだが、何とか本題に戻れぬものか。

 オバサンから入ってしまったが、美人で物腰のある人だとしても、「どうせ人間だから死ぬんだな」とか、「焼いてしまえば骨だよな」と思えば、それまでである。自分もまたそうなんである。はかないのである。

 形あるものは、壊れる、あるいは、死ぬ。そのことを頭の片すみに置いておくだけで、ずいぶんと洗脳されている状態から抜け出すきっかけ作りにはなる。そう思えれば、あるがまま、という状態を体験しやすくなる。

 だが、最終的には、たぶん、多くの人が、日々の苦しみから逃れたい、あるいは、苦しまずに死にたいと思うだろう。そのことに立ち向かったのが、お釈迦様である。だが、その先までお釈迦様は考えたのか、志向したのか、というのは、自分にはまだ分からない。

 オバサンがオバサンであることの苦しみというものを持っているのかどうか分からないが、多分、ある時点から、自分のことが、もうどうでもよくなる、というのが、オバサン化の始まりであろう。だが、小学生でも、オバサンの感性で生きている人もいるし、多くのオバサンは、オバサンであることの意味について、自覚がない、というのが現実であろう。もうどうでもよくなる、という脱価値化がオバサン化という現象である。

 なぜ、それが可能になるのか、というと、「自分を自分でみつめなくなる」ことから始まるのだと思う。それは姿だけの問題ではない。精神の問題でもある。こころの問題でもある。

 そのこころのすき間に、新興宗教とか入ってくると、厄介である。オバサンは、はまりきる存在であるからだ。どうでもよくなったところに、宗教という価値が入ってくると、「それが自分だ」と思ってしまうのである。はじめの話に戻ると、これが洗脳である。

 脱価値化し、精神の空洞を「埋めよう」と思って、行き着く先の一つのパターンがこれである。逆にいうと、空洞を埋めようとしないことが、洗脳されないためには必要なのである。だが、空洞を空洞のまま感じる、味わう、知る、ということをしないのが、大多数のオバサンであろう。

 空洞の難しいところは、うっかり、「埋めなければ」と思ってしまうことである。だが、埋めないというのが、これはこれでまた難しい。埋めずに空洞と対峙するには、死と向き合わなければならない。実際、マンションの一室で、原因不明の女性の自殺、などというのは、最近はあまり報道されないくらいに普通であろう。その死因のいくらかは、空洞と向き合った結果、自分という根拠を見いだせず、死を選んだ、というものであると思う。

 空洞、という実感というのを、感情でいうなら、圧倒的な「寂しさ」である。自殺を選ばないにしても、ちょっと昔の言葉でいうなら、キッチンドランカー、がそうであろう。あるいは、リストカットにいくかもしれない。過食嘔吐もそうかもしれない。これらは、寂しさに耐えきれず、かといって、死を選ぶこともできない人たちの訴えである。自分を傷つけることで、空洞を埋めようとしているのである。

 洗脳、という視点からすると、洗脳が解けたら、そこにあるのは、「空洞」である。あらゆることの根拠が無くなってしまったあとに残るのが、空洞であり、大多数は、圧倒的なさびしさを味わうだろう。オレは、政府や東電に怒りをおぼえる反面、日本という洗脳を意識しているので、実は「もういいや」と思っている。言い方を変えると、政府と東電に怒りをぶつける、ことくらいが、日本との繋がりなのである。実際、日記も書かなくなった。もう、日本という幻想、洗脳から降りよう、そして、空洞そのものを自分の本質としよう、というのが、日常なのである。少なくとも、原発事件以降はそうである。

 いま、自分の日常は、洗脳を解くための時間が増えている。ただ、その方法に致命的な欠陥がある。それは、ある価値・幻想・洗脳を別のものに置き換えることは実に簡単だが、まっさらなキャンバスにする、ということは、実に難しい、と思うのである。だから、想像するに、ブッダという人は、本当に偉大だったのだと思う。価値観を書き換えることは簡単だが、一切は空である、という認識に立つというのは、実に難しいのである。

 個人的には、空洞、という体験があり、そこから世界への新しい拡がりを感じているのだが、それもまた空なのであろう。

 直視すれば、何もない。そのとき、それが、そういうものとしてそのまま受け取れるかどうかが、一つの分かれ目である。更に、それが、ずっとそうあることを、そのまま受け止めていられるかどうか、という難題がある。

 やはりブッダという人は偉大だったのだと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-05 23:58
 都営地下鉄に乗っていたら、以下の様な広告が目についた


甦らせたい自然がある。取り戻したい信頼がある。

コシヒカリ ひとめぼれ

ふくしま米元気プロジェクト JAグループ福島 JA全農福島 ふくしまの米


 これはどういう意味なんだろう。500ベクレル未満のお米なら、都民も食えという意味なのだろうか。

 本来、自然に存在しない放射性物質をばらまいたのは、東電なのであって、東電のものは東電に返すべきだ。それができないから、東電と日本国政府に対して、福島県を中心とした被害者、被爆者の人たちは、賠償を求めるのが筋であって、放射性物質に汚染されたお米を、それ以外の人たちに食わせて、自分たちは食っていこう、というのは、大変な筋違いであり、犯罪的な考え方なのではないか。

 本当に福島のお米なり、農産物が安全なら、地元の人たちが食べるであろう。

 だが、この広告、そして、原発事件以来の東電と日本国政府の犯罪的な情報操作をみれば、自ずと上記の広告の意味はあきらかになるであろう。

 福島を中心とした地域の農家は被害者である。だが、イジメや虐待と同じ様に、イジメられた、虐待を受けた側が、今度は虐める側、虐待する側になっている。

 少なくとも、東電と政府の情報から、その意味を明かに解説している、小出助教のコメントを何度も聴けば、福島の人たちが何を決断せねばならないのかは明かであろう。

 福島の農民の人たちは、自分が犯罪者になろうとしている。少なくとも、この、


甦らせたい自然がある。取り戻したい信頼がある。

コシヒカリ ひとめぼれ

ふくしま米元気プロジェクト JAグループ福島 JA全農福島 ふくしまの米


という広告を見れば、その意味は明かであろう。

 福島の農民の人たちは、農民として・人としての尊厳を失った訳である。そして、この広告によって、更に人としての信頼を失ったのである。まったく悲しいことであり、痛々しいことである。

 この広告を都営地下鉄に掲載を許可した都営地下鉄・東京都もまた犯罪者となったのである。石原都知事は、この意味を理解しているだろうか。

 できる限り、福島のことを応援したいという気持ちで、原発事件以来、非日常化した日常を送ってきたつもりであるが、このJAグループ福島 JA全農福島の広告を見て、気持ちが変わった。JAグループ福島 JA全農福島の連名でこの広告が出たということは、これは、福島の農民の人たちの総意であるとしか、受け取ることができない。

 もう一度、自分たちの置かれた立場をよく考え、誰が責任者であり、誰が加害者であるのか、再考する必要があると思う。

 福島の農家は、自ら、犯罪者となる道を選択してしまったのだ。

 オレは500ベクレル未満のお米が安全で、500ベクレルのお米が危険だ、などとは到底思えない。原発事件以前のお米の5000倍危険になっのたのだから。そういう犯罪的な基準を定めた、日本国政府を、福島の農家の人たちは訴えるべきであろうし、農産物は、東電と日本国政府に買い取らせるべきであろう。そして、その生産物は、東電社員、政府に関わる人間、ウソを並べ立てる専門家と名乗る学者たちが食するべきであろう。

 しかし、こういう広告が出たということは、福島の農民の人たちは、そうした訴えをする責任も放棄し、真実を隠蔽しようとしていることは、明白である。よって、福島を応援しよう、という気持ちも冷めた。農業関係者に幻滅した。

 いじめられっ子たちの訴えを聴いていた時代があって、最終的な結論としては、他人を盾にしていじめから逃れようとする人間に絶望したことがある。いじめられは、いつまでもいじめられてりゃいいんだ、という結論になった。

 自己の保身ばかりで、自分の尊厳と責任を自覚しない人間というのは、ロクでもない存在である。軽蔑に値する。

 残念ながら、この広告で、福島の農民を軽蔑した。

 挽回するならば、この広告を出したJAグループ福島 JA全農福島の責任を、福島の農民自ら追及する他はない。そして、自力で、東電と日本国政府の責任を追及するしか道はない。

 だが、それによって人としての尊厳が回復されることはあっても、福島の自然と信頼は回復されることはない。残っている選択肢は、「自ら犯罪に手を染めることはしないという決意」をすることだけなのである。

 如何に原発という存在が危険なものであるか、人間の尊厳までも奪ってしまうものであるか、この広告を見れば、理解できる。何ということだ。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-05 01:22
 読み物としてよくできた本である。だが、疑問もある。

 というのは、「誰にでもできる」と書かれているのだが、実際に、周囲の人は、如何に努力しても、Oリングテストすらできない人も多い。少なくとも、このシータヒーリングを自分一人で実践しようという向きには、はじめのうちは、Oリングテストは、肝となる方法だろうからだ。

 さらに、第七層の神=創造の神、という存在とつながるにはどうしたらよいか、ということが、解説はあるものの、難しいと思う。

 自分に限っては、まったく自己流で、ハイアーセルフなどと対話する方法を確立してしまっているので、この本を1時間くらいで読んで、すぐに実践することは簡単だった。だが、それが、本に書いてある様な、誰にでも簡単にできるものかどうか、というのが問題である。

 その問題を除けば、このシータヒーリングという方法は期待できる内容である。

 ちなみに、第七層の神=創造の神、については、自分で調べた限りでは、唯一神でもなく、たくさんおり、第七層の神というのが、最高の神、ということではなさそうだ。

 ただ、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」に登場する神が語ることだが、神というのは、われわれが言ったことに対して「そのとおり!」と答えるだけの存在である。自分で調べた限り、その役割を担っているのが、第七層の神=創造の神、である様だ。いろいろ対話をしてくれる神、というのは、また別の存在、別の側面である様だ。

 結局のところ、Oリングテストが使えるかどうか、第七層の神とはどういう状態(この本では、θ波が出ている様な脳やからださんの状態)であるかを、実感できるかどうか、確信を持てるかどうか、というのがキーとなると思う。

 応用範囲の可能性も多くあると思うが、自分の場合、まず、自分が世の中や親や教育から受けている洗脳を外すことから始めた。本には、脱洗脳、という言葉はみられなかったが、脱洗脳にも使えると思う。

 こういう方法が有効だとしたら、アファメーションの類を実践することが楽になるだろうし、ポジティヴ・シンキングをせずとも、思い込まされていることを、ニュートラルな価値観に書き換えることは楽だと思う。

 個人的には非常に可能性をもった、そしてやりやすい方法なので、星五つにしたいところだが、Oリングテストと、超越的な存在と繋がることが、誰にでも簡単にできることかどうか、周囲を見ると疑問なので、星は四つにした。

 自分を実験台にして、いろいろ試してみたい、楽しみな方法である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-03 22:20

N響のマーラー、大誤訳

 先日、行けなかった演奏会は、マーラーの「千人の交響曲」である。声楽はよかったらしいが、オケは酷かったらしい。

 友人がプログラムを確保してくれたので、ぱらぱらと見ていると、クライマックスの「神秘の合唱」に大誤訳があった。昔から指摘されている誤訳であり、もういい加減に直っているかと思ったら、まだ誤訳のままの様である。翻訳は岩下久美子という人のものの様だが、ひょっとしたら、新しい訳ではなくて、三十年くらい前の翻訳をコピーして持ってきただけなのかもしれない。

 どこが間違っているかというと、「すべての過ぎゆくものは 比喩にすぎない」という下りである。ここでは、nurは、悉く、という意味で使われているものである。岩下氏の訳を活かして、訂正するとしたら、「すべての過ぎゆくものは 悉く比喩である」とするのが正しい。

 ちなみに、古い翻訳だが、手塚富雄氏は、以下の様に訳しておられる。

 「なべて移ろいゆくものは、比喩にほからならず」

と、格調高く訳しておられる。この翻訳の初版は、昭和46年のものである。読売文学賞を受賞している、この時代の定番でも、しっかりと直っている。森鴎外の誤訳の復活は、N響はチェックしていないか、それとも、見識のある人が、団にいない、ということになる。マーラーの世界観に関する重要な部分であり、クライマックスの部分であるから、これは大誤訳である。

 誤訳大国と言われる日本であるが、プロだけで歌う千人というのは、これが初めてだそうで、そういう記念すべき公演で、いい加減な訳がされていた、という訳である。情けないことだ。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-02 22:46

立川談志の死

 歌の練習のとき、合唱の先生の口から聴いた。先生によると、「ショックだ」そうである。

 自分はあまりそう思わない。立川談志の芸の堕落については、もうずっと昔から言われている。オレが習った英語の先生によれば、立川談志を聴いて、「古典落語の天才かと思った」と言っていた。しかし、その直観から、芸がずれてくるのもそう時間がかからなかった様だ。それは、もう三十年も前の話である。先生が語ったのが三十年前だから、立川談志が、古典落語の天才だったのは、そのもっと前なのであろう。しかも、先生が、芸が落ちた、と仰る時期のことは、たぶん、そのもっと前とあまり違わぬ時期を仰っているのである。

 未来を嘱望されている人、というのは、得てしてそうなるのかもしれない。しかし、古典落語の天才から、はみ出して、新しい在り方を体現した人であるのかも知れない。

 だが、こういうことを言った人もいた。その人も好き勝手いう人なのだが、「談志も、これだけ長生きして、ずいぶん迷惑かけてんじゃないですか」と言った。

 それはないとは言えない。実際の話であるが、今はどうなっているのか知らないが、有楽町というか、銀座というかの宝くじ売り場のあたりで、楽器の扱い方も知らぬ弾き方で、着物を着てヴァイオリンを弾いている若い人がいた。何か、立て看板があったのか、それとも、胸と背中に看板を下げていたのかはっきり覚えていないが、その人と話をしたことがある。

 その人は、立川談志から破門された、という人なのである。そのことを訴えているのか、それとも、破門そのものを売りにしている人なのかは分からなかったが、そのことが看板に書いてある。

 好き勝手いう人には、好き勝手いう人の心というものが分かるのかもしれない。「確かにこういう形で迷惑をかけているな」と。

 ただ、談志には、強みがあったと思う。それは、古典落語の才能ではないと思う。自分は人気者だ、という確信を持っている、という才能である。そう思った、少なくとも、一時期そう思った人の一人は、多分、麻原彰晃である。今でも勘違いしてそう思っているのは、石原慎太郎である。

 勘違いだとしても、「自分は人気がある」と思っている人間は、そう悪い気はせずに生きていける。だが、麻原は、それが勘違いだと、選挙の結果思って、オウム真理教事件となった。

 弟子に迷惑をかけている、という点では、立川談志と麻原彰晃はある意味でかわりはないのだが、立川談志は、常に自分は大衆の側にある、という確信があったのだと思う。筑紫哲也のニュースで、たまに出てきては、好き勝手なことを言って、自分のペースに持ち込む、というのは、自分は大衆に人気がある、という確信なしにはできないことである。

 しかし、少なくとも、談志の度量というのは、銀座の宝くじ売り場でヴァイオリンの芸をする若者を包むことすらできないくらいのものなのである。その程度の度量なのに、好き勝手が言える、というのは、「自分は人気がある」という確信からであるとしか、オレには思えない。

 麻原彰晃は、自分は人気がない、と認めることすらきつかったんであろう。それがあの一連の犯罪の原因であり、原動力となったと思う。人気者になりたい、という気持ちをエネルギーとして生きている人間はここが危険だと思う。

 そもそも、自分が人気者である、という認知をする、というのは、実はずいぶん傲慢な話である。だが、談志は、たぶん、最近まで、それを力として、オレはただの汚いじいさんとは違う、という自己イメージを持っていたのだろう。

 筑紫哲也のニュースに出ていたころの談志というのは、愚痴と文句をいうことを芸としていた。何もこの映像に関して知ることがなければ、ただの汚いじいさんである。だが、何をもってか、この汚いじいさんは、自分のことをじいさんだとは思っていない様に見えた。少なくともそう振る舞っていた。

 愚痴をいいながら、見栄を切る、そんな感じが、立川談志の晩年の芸風だったと思う。

 自分は違う、という認知、というのは、なかなか難しいものである。その尺度を人気に求めるというのは、自尊心が乱高下して、あまり健康な生き方とは言えない。

 英語の先生が天才と言っていた立川談志は、もう何十年も前に終わっていたのだ。それでも、まだ、オレは落語家だ、という認識はあったのだろうか?

 そう考えると、一つの結論が出てきた。立川談志は、古典落語の天才である自分を嫌ったのではないか。古典落語の天才、って、つまりインテリである。インテリは大衆を見下している。だからに人気がない。オレは、そうなるつもりはナイ、というのが、談志の気持ちだったのではないか。だから選挙にも出て、人気を票で証明しようとした。そういうことではないのか。汚いじいさんになっても、テレビじゃ、ご意見番扱いだ。ご意見番というインテリをやるのがまた気に食わなかった。だから、ぼやき、文句を言うことを芸にしてしまったんではないのか。

 最近しばらく観ていなかったので、訃報をきいて、気になった。

 最期まで人気者でいたかったのが、立川談志なのではないか、と思った。

 月並みながら、ご冥福をお祈りしたい。(されたくもないことは理解しているのだが)


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-04-01 23:16
 近所で区主催のアニメのお祭りがあり、出かけた。雨で、どうしようかと思ったのだが、雨が酷かったせいか、入園することができた。

 お目当ては、アニキ=水木一郎さんのステージ。感動した。

 登場するだけで、人の心をつかむカリスマ性もさることながら、一人の歌手として、これだけ素晴らしいということが凄い。

 印象に残った話しは、被災地を慰問に行かれることが続いているそうだが、港の町では、海に関する歌を歌わない方が思っていた、という。ところが、現地の人たちの話を聴くと、「われわれは海で生きている町だから、海の歌を歌って欲しい」ということだったという。

 ステージが終わってからは、ずぶ濡れの服で、歯がガチガチして凍えていたが、今回を逃したら、なかなかアニキのステージを拝む機会もなかったと思う。入園料200円だけで、誰でも入場できた。

 明日も続きはある様だが、雨が降っていなかったら、もう一度行ってみたいと思う。雨だったせいか、コスプレの人は、割とすくなかった気がする。自分も、自由惑星同盟の軍服でも着ていくか。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-31 22:51

盲点だった

 アセンションした、とか、先月末(※2011年10月28日)に言われたのだが、どうもよく分からなかった。しかし、やっと、今日になってその謎が一つ解けた。

 それは、アセンション、あるいは2012年問題について発言している人たちは、アセンション、と、トランスフォーミング、とをごっちゃにしている、ということだ。

 ある人の本を資料としてパラパラ見ていたら、「アセンション(トランスフォーミング)」と書かれた一行があったので、もしや、と思い、彼女に聴いてみると、アセンションとトランスフォーミングは別のことだという。

 彼女によると、オレのDNA自体は、目を覚ましているが、その段階がアセンション、というそうだ。形、意識、時空などの変化となって現れる段階が、トランスフォーミング、だという。

 ちょっと思いついて聴いてみたら、こんな重要な違いがあったのだ。

 ついでに、聴いてみたところ、アセンションというのは、聖痕が刻まれた、様な状態であるという。

 だから、アセンションというのは、サナギになった段階であって、成虫になった訳ではないという。成虫となるのが、トランスフォーミングである、とのことである。

 どんな姿になってしまうのか、想像するとコワイ。


 余談だが、今のところの観察では、先月28日(2011年10月28日)以降、目立って違うことというと、風呂で流した垢の量が半分くらいになったこと。他の条件が変わっていないのに不思議だ。これは、オレだけではなく、もう一人同じ現象を体験している人がいる。

 垢の量を毎回量っている、というのも妙な習慣だが、桶にたまる量が違うのである。何らかの意味で、代謝が変化しているものと考えられる。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-30 23:28

実感が沸かない

 ハイアーセルフでもある彼女から、オレが「アセンションしました」と言われても、どうも分からない。たとえば、ボッティチェリの受胎告知くらいに、神妙にしている、というか、そんな感じであろうか。

 一応、普段とは、感覚的な差が何かあるかどうかは、注意して過ごした。あるとすれば、街中の人、ひとりひとりの表情が、普段よりは、少しリアルに見える気がする、くらいのところか。たんに注意しているから、そう見えるのか。

 味とかには変化はない。今のところ、幸いにして、不適応状態の味とか、空気の薄さが辛い、という感じではない。

 ただ、朝早く目が覚めて、早い時間の日光にあたった。それが新鮮だったくらい。

 特別、シンクロニシティの様なことがあるかというと、特にない。あるとしたら、きょう聴かせて頂いたオペラの作曲家が、誕生日が同じ日、ということくらい。

 如何にハイアーセルフの言うことでも、分からないものは分からない。じわじわ分かってくる類のことなのかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-30 00:11