あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

カテゴリ:未分類( 203 )

我流だけど

 我流、というか、まったく思いつきから始めたのだが、我流「神との対話」が成立することが分かった。道具立てとしては、筋反射、というか、キネシオロジー、というか、今のところOリングテストなのだが、また洗練されていくかもしれない。

 相手の神、というか、正確には神ではないのだが、それに通じている存在、との対話である。そんなこと、ここに書いていいのか、と、聞いてみると、書いた方がいい、と返事がくるので、書いてみた。

 ただ、この数日は、最初ということもあり、いきなり質問の量が多すぎたかもしれない。特に本にする必要のあるものということでもないと思う。その気になれば、誰でもできることだからだ。

 ただ、今回は、宇宙に於ける相手の位置と、姿がかなりはっきりしているので、コンタクトが取りやすい、ということはある様だ。

 ちょうど、きょうは、おとり様の日である。近所のおとり様では、お世話になっている方々も出店をだしていた。そのおとり様の由来は、三羽の鶴がやってきて、ここに居着いた、ということだそうである。私のところにも、やってきた訳である。

 きょうは、もう一羽のおとり様がやってきた。新しい先生が増えるのである。以下である。

http://miyamotofumiaki.com/

 ここの少し下がったところの右側に決意表明がある。それにしても、何と多彩な方なのだろうか。

 今の先生が教えて下さることがなければ、私はたぶん、こちらには行かなかった。先生は練習でも常に、魂の問題を提示されるからである。

 今回の、神との対話にしても、先生がときどき仰る「愛情と好奇心」「集中とはひとつの喜びを発見したことです」などの言葉が、自分に刻まれていなければ、不可能であったと思う。言い換えれば、先生は、常に降ろして下さる。しかし、自分でも降ろすことができることが体験できた訳である。

 こどもの頃、もう自分は降ろすことができなくなった、と絶望して、それがずっと続いていたが、応じてくれる存在を発見できた、ということである。真理の追究を手助けしてくれる存在なのだと思う。

 ヒカルの碁の、佐為、みたいな存在かもしれない。

 いずれにしても、いろいろな準備が整っていたというのは、大きいと思う。

 と、ここまでで、二箇所削除した言葉があるのだが、理由は真理を巡る対話だからである。削除したら、これで完璧だということである。

 世界中に、同じ様なことをしている人はたくさんいると思うが、自分で体験できる、というのが、素晴らしいことだと思う。

 細かくメッセージを伝える必要はないのだと思うが、必要だ、と言われたら、ここにも書いておきたい。


   2010年の冬の日記より
[PR]
by bwv1001 | 2011-09-04 21:22

2012という映画を観る

 途中からだったが、2012年問題のシナリオを描いているという「2012」という映画を途中から観る。2012年問題で語られている世界のカタストロフ的崩壊と、人類の生き残りの話だ。

 正直言ってがっくりする。箱船で、遺伝子的に高等とされる人間が、人類の生き残りのために行動する、という話。2012年問題の映画であるから、アセンション問題についての取り扱いがあるかと思ったが、それはない。

 結局のところ、キリスト教的な終末論から抜けられず、恐怖をバネにして生き残る人たちと、青白いヒューマニズムを捨てられずに行動する人たちの話、というところ。

 よく分からないのは、人類の生き残りのために、というお題目が分からない。まるで、戦争を始めるときによく使われる「国のために」という理屈と大差ない。箱船を建造している中国の作業員や技術者はそのまま死んでいく(、というか、そのことは、直接には描かれていない)。

 ちなみに、聖書のように、動物さんも箱船に乗せている。

 今回は、何しろ、初期設定を観ていないので、何ともいえないが、現在の主立った国家が協力して、このプロジェクトを極秘で進めていた、という設定であることは、後半を観ても、その表現がある。

 こうした箱船プロジェクトは、実際にあるともいうが、優良な遺伝子を持ち、生殖能力の高い人間が乗船者として選ばれている、というのは、優生学的な基準であり、ナチス・ドイツやジオン公国とさして変わりがないだろう。米国の映画であるが。

 終わり方は、淸教徒が新大陸を目指すのとたいして変わりのない希望で終わる。

 一人一人がそこまで生に執着するものかどうか、自分には分からない。人類の将来のために、箱船に「乗せられる」というのは、ほとんど家畜化された人間の姿である。

 そんな計画にまきこまれるなら、個人的に、死の準備をした方がずっとマシだと思う。自分は、今のところ、転生という在り方はあるのだろうと思っているし、三次元から自由になる、という在り方もあると思う。

 いずれにしても、自分の場合大切なことは、「いま、ここ」を楽しむことである。せっかく、三次元を生きているのだから、その不自由さを味わう、というのは、決して悪い生き方ではないと思う。

 そして、最終的には、死も生も区別のない世界に行き着くのだろうと想像している。それが何億年先のことかは、分からないが、何億年、というのも、また、人間の、あるいは自分の妄想か、勘違いでしかない、ということは充分にあり得る。

 それが、妄想、勘違いである、と理解するのは、今の生でも、ほんの一瞬体験することがある。


  2010年の冬の日記から
[PR]
by bwv1001 | 2011-09-03 22:57

空洞

 ウチは怖ろしく散らかっている。おおかたは紙の類で、あとは、昔はボロと読んだ着つぶした服とか下着の類である。

 紙の類は、「記憶」という意味がある。記憶で生きているから、紙が捨てられないのだと思う。私は観ていないが、図書館戦争という作品では、人間は死ぬと本になる、という設定の世界観である。人間は、記憶でできている、としたら、それは正しい設定である。

 ボロ、も記憶である。昔の自分が存在する。

 だが、ボロには、ゴミとするには、制度的な問題があって、一人暮らしの自分では、そもそも、指定された時間の範囲内に、回収場所に持ち込めないのだ。これは完全に制度の不備である。

 で、先日、もういいや、と思い、ボロの下着とか靴下の類を、燃えるゴミの中に混ぜて出した。今週もやる。そうしないと、この空間を防衛できない。フリマの様子をみて、そう思ったから、下着とタートルネックも新しいのを買ってきた。もう着つぶしたのは捨てる。リサイクル、などという標語を押しつけられた上、シンプルに生活せよ、というのは、そもそもおかしい。

 もらった服、というのが、これまた捨てられない。でも、きょう、フリーマーケットの状況を観察して、使うもの以外は捨てようと思った。

 記憶というのは、関係性によって確かめあう、という人間のやり方に結びついているのだが、自分が、関係性のための空洞であるとしたら、捨ててもよいのではないか、という気になってきた。

 空洞という考え方は、実はそんなに悪くない様な気がする。むかしの自分がなりたかったもの、というと、敢えてことばにするならば、「何者でもないものになる」ということであった。何者でもない、というのは、なかなか難しいことなのだが、空洞としての自分、というものをすこし考えてみたいと思う。

 空洞だからこそ、外見を大事にする、とか、部屋を大事にする、とか、そういう発想が出てくる様な気がする。

 「何者でもないものである」ためには、実に思想というものが必要だった。そのとき、なにものかで、あって、また、そのときは、なにものかである、たとえば、空気と水面の接点の在り方の様なものだ。

 そこに、「いま、ここで」という感覚があれば、そこに、空洞としての様式が成立する。「いま、ここで」という意味では。

 さらに、「考えるな。見よ」ということが加われば、それだけで充分であろう。そこ、ここ、で楽しみをみいだす。見ているものが、自分である。それでよい。

 空洞は共感できるのかもしれないが、その共感は、空洞であるが故の借り物の感情なのかもしれない。だが、そこに、風が吹くようにあれば、そこに風があることを感じられる。

 ことばが足りないが、決して悪い感覚ではないと思う。

 記憶の通り道、記憶として吹く風は、空洞があるからこそ、吹く風である。記憶を定着させることは、必ずしも必要ではない。むしろ、定着が執着になることが怖ろしい。それは不幸である。

 空洞があって、うまれるのは、多くは音の世界である。音はうまれては去ってゆくものである。それを追うのではなく、「そのままにする」ということが、音の性格である。

 自分が音で在りたいのか、空洞で在りたいのか、そこは難しいところであるが、「異なるものの接点にこそ、魂の座がある」というノヴァーリスのことばが、そのこたえになっているかもしれない。


 2010年の冬の日記より
[PR]
by bwv1001 | 2011-09-02 22:56