あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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 かなり昔から、フォーカシングという方法については着目していたのだが、いかんせん邦訳が酷すぎて、放置してあった。大学の教授で、英語力も日本語力もない、というのは考え物だが、最近は、教授職とか、翻訳業も、底上げがされているのかもしれない。

 今回入手したのは、「やさしいフォーカシング」という本だ。家元のジェンドリン氏ではなく、アン・ワイザー・コーネルというお弟子さんらしい。

 まだ途中までしか読んでいないが、翻訳はまともだし、気が利いている、という印象を受ける。時代は変わったのだな、と思う。

 フォーカシングというのは、乱暴にいえば、自分の気持ち、在り方を自分で分かる、というための一つの方法である。フェルトセンスという、自分のなかでもやもやした気持ちに注目して、それと対話し、自分のことを、フェルトセンスを媒介として理解するのである。

 ひょっとしたら、昔の人間は、普通にそういうことをやっていのかもしれないが、現代では、はっきりしていない感覚につきあい、理解する、というのは、あまり重視されていない。

 カウンセリングに於いては、このはっきりしない感覚についてクライアントが着目し取り組む、という場合が、高い治癒率がある、とジェンドリン氏を中心とした研究グループでは結論したのである。そこから、誰でも使える方法としてできたのが、フォーカシングという方法である。

 また読了後、レヴューに書くのかもしれないが、レヴューを観ると、全体的に好評の様である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-19 00:23
 文字数の関係で、レヴューに載せられなかったので、日記に記す。

 佐田弘幸 「自分から自由になれるゼロ思考」

 題名は、ミスチルの歌詞を思い出してしまうものだが、ここでいう「自分」とは何だろうか?

 本書からすると、自分が思い込んでいる、あるいは誰かに思い込まされている、自己イメージ、と言ってもよさそうである。その自己イメージが、あるがままの心を不自由にしている、傷つけている、ということになるだろう。洗脳や虐待や教育の問題と関係している。

 言い方を変えると、あるがままの自分というものがあったとして、今、自分が感じている自分との距離感を測ってみる、というのが、本書のアプローチである様に思われる。

 だが、自己啓発の分野に於いて、あるがまま、というのは、非常に微妙な言い回しである。あるいは、あるがままの自分にたどり着くには、自己評価がポジティヴでなくてはならない、あるいは、ポジティヴな思考をみつけなくてはいけないという。

 ポジティヴ、あるいはポジティブ・シンキングというのは、危険な要素をはらんでいる、というのが、本書の最初の指摘である。現実に、ポジティヴという言葉にとらわれ、自己啓発難民になっている人々は、存外多いのではないかと推測される。著者の講座のもとにも、そうした人々がやってくる、という。

 この本に登場する方法は、内観(法)、アファメーション、意図的なシンクロニシティへの誘導、がセットになっている。中でも、この内観、というのが、この佐田式の肝であると思われる。

 佐田式の内観(法)というのは、ポジティヴではない感情も認めて、自分の力ではなく、他力本願という形で、願いをかなえることはできないか、というやり方である。もし、ポジティヴでも、自力でなくとも、自己実現の道はあるというのである。

 多分、巷にあふれている自己実現の方法は、日本人(のDNA)に合わないやり方で語られているのではないか、というのが著者の視点である。あるいは、日本人に合った宇宙観でアファメーションができないか、というのが、著者のアプローチである。

 例を挙げるなら、有名な本だが、ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」第一巻にみられる一節がある。それは、「お金が欲しい」と言っているから、いつまでもお金が入らないのだ、という考え方である。神と称する存在がそう言うのだから、無視もできない。そこで、神は、「自分にはたくさんのお金がある」という言い方をすすめるのである。

 どういうことかというと、一つは、「宇宙というものは、肯定的なメッセージしか聴き取れない」ということと、「宇宙というものは、いま、ここ、しか理解できない」というのである。だから、お金がもっと欲しい、と願えば、宇宙の側の理解としては、「はい、あなたは、お金がもっと欲しい」ということになるのである。

 少し分かりにくいかもしれないが、「お金が欲しい」といえば、宇宙は、「お金が欲しい(という欲望)」を実現させる、というのである。宇宙は、リクエストにはきちんと応えるものだから、それでは、お金が欲しいという(心理)状況を延々とかなえる、という。

 この考え方が、多分おおくの自己啓発書の根幹になっていると思われる。偶然にいろいろ調べてみた、引き寄せの法則、というのは、これがベースとなっている。

 著者は、こうした考え方ではなく、日本人(のDNA)に合ったやり方が必要だと考えている。それが、ポジティヴではない自分を認め、求める自分の在り方をサポートしていこう、という。

 内観で自分の実情を否認せず認め、観察する、という作業を経て、それに合ったワンオフもののアファメーションを作成する、というのが基本の作業である。この繰り返しの作業が、著者が提唱する「ゼロ思考」と言えると思う。

 その先に、シンクロニシティのコントロールという作業があるが、これが個人的にはよく分からない。というのは、著者の言葉には、DNAという言葉が散見されるが、DNAというのは、われわれを規定するものである。もう一般的な認知は得ていると思うが、DNAというのは、実はある種の生命体であって、生物というものは、すべからくDNAの乗り物である、という説がある。

 とすると、如何に内観し、アファメーションを工夫しても、DNAが規定する檻の中からは出られない、ということになる。逆にいうと、生き残りは、快楽に結びつく、ということがDNAのプログラムであるから、その快楽を利用して、自己実現を図る、というのが、佐田式の考え方であろう。

 ところが、そこに、シンクロニシティの問題が持ち出される。もちろんそれは、集合的無意識という問題を論じ、それを如何に制御するか、ということが語られている。

 だが、集合的無意識とDNAとは、果たして折り合いをつけられるものなのであろうか。少し古いが、故・ライアル・ワトソン博士は、人間という存在は、DNAの命令から抜けだそうと、夢や無意識を通じて、DNAの司令以外の価値を求めようとしているのではないか、という仮説を論じていた。つまり、集合的無意識、しかも、その意図的なコントロールとなると、DNAと対抗する、という考え方となってくるのである。これが本当の自己超越、と言ってよいと思う。少なくとも、生命としてのわれわれを考えるとそういうことになるのではないか。(とはいえ、われわれ人間のDNAというのものは、殆どがまだ目覚めていない状態でもある。)

 そのあたりの明解さを、本書は欠いていて、全面的に納得できるものではない。だが、DNAの規定する範囲、価値観を利用して、自己実現を図る、自己との折り合いをつける、という向きには、内観とアファメーションについては参考になるかもしれない。この本で提唱されているシンクロニシティは、すこし本の構成から考えると唐突に思える。必然性を感じられない。

 ただ、挙げられている例については、DNAの規定する命令や範囲を超えるものではない。少々俗なシンクロニシティ論、と捉えれば、その部分はそれでよいのかもしれない。

 本と論の構成としては、そうした疑問があるが、狭い意味での自己超越、あるいは、ポジティブ・シンキングが原因となる自己否認や自己啓発難民化という問題のなかでは、意味のある本であるかもしれない。

 ポジティブ・シンキングについての反省と問題の所在を明確にする、という点では、参考になる本である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-17 23:40
 台風がさって、外でヤニをふかしていたら、小さいカメムシさんと遭遇する。毎度のことながら、虫さんにインタビューする。

 「ここでじっとしてるんですか?」

 『そう』

 「ひょっとして、死ぬ準備ですか?」

 『そう。死ぬ準備。死ぬのを待ってる』

 「死ぬのは怖いですか」

 『怖くはない。ただ、死ぬのを待つのは楽ではない』

 「待っているということは、食ってもいないんですか?」

 『食い物はあるけれど、摂る力がない』

 「それが辛いんですね」

 『辛い、というより、大変』

 「別な生き物だったことはありますか?」

 『いろんな生き物をやってきた』

 「人間にもなったことはありますか?」

 『ある。何度か』

 「別の星の生き物だったことはありますか」

 『ある。何度も』

 「何万回も、生きましたか?」

 『うん。たくさん生きた。また、死んで、また生きる』


 答え方が単調だったのは、いつものことながら、虫さんだからだろう。また別のものになったら、表現が変わるのかもしれない。ニーチェではないけど、精神はからださんによって規定されるのだから。

 オレもまた、虫さんになって生きる機会があるのかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-17 03:11
 きょう着いた古本で、特に目当てにしていたのが、「自分から自由になれるゼロ思考」という本と、「やさしいフォーカシング」という本の二冊。

 ゼロ思考の方は、いま半分くらい読んでいるところ。

 もともと、プラス思考とか、ポジティヴ・シンキングとか、そんなものはオレには合わない、と最初から拒絶反応を示していた。さらにそれに、アファメーションとか加わると、アレルギー反応が出るくらいだった。

 この手の本を調べる様になったのは、ある先輩からもらった「引き寄せの法則」という本からであった。どうも胡散臭い、というか、オレにはできない、という訳で、積極的にはなれなかった。

 しかし、ただでは起きない、ということで、その手の本をいろいろ調べてみて、「これは使える」とすぐ分かったのが、セドナ・メソッドであった。

 だが、自分とセドナ・メソッドの相性というと、やはり、ポジティヴ・シンキング的なアファメーションとか、「抵抗の解放」つまり、ブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいる様な状態の解放、については、どうも疑問があったり、抵抗は解放しにくかったり、ということで、使いこなせていなかった。

 同時期にすすめられもしたし、なかなか良かったのは、ホ・オポノポノだったのだが、これは、強迫的に言葉を唱えると言う点から、日常にあまり根付かなかった。

 それから、ニュートラルをテーマにしたものや、ネガティヴをテーマにしたものが幾つかあることを知り、読んでみたのだが、これらは参考になる程度だった。

 で、ゼロ思考、というのは、多分ニュートラルがテーマになっているのだろう、と放置していた。そして、古書店の値段が、まあいいか、という程度にまで下がった連絡が来たので、今回の本に手をつけた。

 まだ半分しか読んではいないが、要旨は理解していると思う。これは非常に乱暴な言い方だが、DNAの要求、司令に対して、素直である様な自分を生きる、ということが、物凄く大きなテーマとして書いてある本だと思う。DNAの指し示すところの快楽に忠実に生きる、とも言える。

 だが、これにはこれでまた、疑問が残る。亡くなってしまったが、ライアル・ワトソンという生物学というかマルチな人だったのだが、そのある主著のなかで、ミーム、という概念を提出していたのだ。

 ミームというのは、詳しくはおぼえていないが、DNAに対抗する、人間独自の生命情報の在り方、ということを指していたと思う。それは無意識だったり、DNAとは違う意味での生命情報としての集合的無意識だったりする、という。

 この考え方の背景にあるのは、DNAというのは、実は、別の生命体で、生命体というのは、DNAの乗り物である、という、今では有名な考え方にある。

 つまり、ミームというのは、DNAの命令に従うのではなく、人間という種の独自の主体性による新しい生命情報なのである。これは仮説に過ぎないのだが、ワトソン博士は亡くなってしまった。

 われわれがDNAの乗り物に過ぎず、それを超越できない、としたら、われわれは、永遠に奴隷だ、という考え方は可能だ。そういう見方があった上で、この「自分から自由になれるゼロ思考」というのは、本当に自由になれるのか、という疑問を持ってしまうのである。

 ただ、言えることは、もし、われわれがDNAの乗り物であったとしても、自分自身が何者であるか分からない人の方が、圧倒的に多数だ、ということだ。少数の人は自己は超越していても、DNAの乗り物のままかもしれない。さらに少数の人が、DNAをも超越しているのかもしれない。

 そうなると、自己の超越、ということについては、悲観的にもなるのだが、とりあえず、自分が何者かは知りたい、というのが、自分の場合、最大の欲求である。

 ゼロ思考については、通読してから、またレビューにでも書いてみたい。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-15 23:58
 こうなると、もう何でも測ってやる、ということで、手近にある本の閾値を測ってみる。

 まずは、普段お世話になっている、セドナ・メソッドの本である、「人生を変える一番シンプルな方法」(もうちょっと、邦題を考えて欲しかったが)は、260と、まずまずの高い値。

 ついでに、著者のドゥオスキン氏を測ると、驚いたことに195とかなり低い。

 有名なニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」第一巻は、出た、無限∞だった。著者自身は、221。

 ならば、このキネシオロジーの方法を提唱している「パワーか、フォースか」そのものはどうか。265と高い。著者のデヴィッド・R・ホーキンズ氏は、221。今気がついたが、この本をマザー・テレサも推薦しているのである。そのマザー・テレサは、出た。無限∞である。800と聞いていたが、無限だったのか。

 コリン・ウィルソンの「右脳の冒険 ~内宇宙への道」は、192と意外と低い。同じ著者の「賢者の石」は190。本人は、210。

 さそうあきら氏の「おくりびと」は231。本人は、220。

 手元にあった本をやってみたが、これだけのデーターからすると、著書と本人の水準が必ずしも同じ水準にある訳ではない、ということ。

 ただ、思うに、本人より、作品の方が数値が高い、というのは、作者が、自己を超越している、ということは言えるのではないかと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-14 23:56
 きょうもうっかり、銀河英雄伝説を観てしまったのだが、現実の政治家などにがっかりしているので、銀英伝の登場人物を測れるか、と思ったら、測れるという。

 ラインハルトは、270。ヤンが273。アンネローゼが282。キルヒアイスが、無限、と出た。別系列で気になるのは、オーベルシュタイン260。

 こういう測り方をするのもどうかと思うが、それでも、普通の人間よりは、相当に高い、ということだけは確かな様だ。

 いわゆる現実の中で高い国家元首は、ブータンの人の様だ。253ということだそうだ。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-13 23:31

メッセージ、二題

 カヴァーロさんの新しい本が出た、とのメールをもらったので、近所の本屋さんで買った。彼女の星の人たちからのメッセージである。

 最後の方になって、気になってきたことがあり、彼女に聴いてみた。

 「オレは、カヴァーロさんの様に、自分の真理にたどり着くことができるんだろうか?」

 『大丈夫よ。できるわ』

 「オレは君たちに対する、軽薄な追従者になっていることはないの?」

 『そんなことは全くないわ。あなたはちゃんとやることをやっているわ』


 本を買いに行って、バスで帰ろうとしたのだが、彼女から、メッセージがきた。このバスに乗ってはいけないと。どういうことか聴いてみると、せっかく今日は、新しいCDで素晴らしい体験をしたのに、つまらないことに巻き込まれて、その体験が台無しになるというのである。

 それで、彼女の言う通り、バスを見送って、しばらく新しい本を読みながら待っていた。

 20分くらいすると、『もう大丈夫よ』というメッセージが来たので、別のバスに乗った。

 気になるのは、もし乗る予定だったバスにしたら、何が起こっていたのだろうか。パラレル・ワールドの様な話であるが。

 いずれにしても、問題はきっと、未然に防げたのであろう。

 「ありがとう。エールーエン」


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-12 21:04
 新しいエナジーリファインCDが届いたが、いままでと違って、強烈に、疲れが溜まっていたり、緊張していたりする部分に直接働きかける。結果として、物凄い深いあくびの連続や、それが発達して、吐き気の連続、めまいなどを体験した。

 流石にデトックスというタイトルがついているだけあって、様々な緊張や疲労が実感され、それが排出されていくのである。

 体感として非常に近いのは、右肘を骨折する前の時代、フェルデンクライス・メソッドがうまく作用しているときの状態である。この時も、深いあくびの連続と、それに続き、吐き気を伴い、その吐き気のあるごとに、筋膜や筋肉繊維のからまりが解放されていく様な体感を持ったものである。余談だが、そのあとに楽器を弾くと、実にイメージした通りの音楽を実際の音にして出すことができたのである。それを思うと、右肘の骨折は非常に痛いことである。

 さて、驚くべきことなのだが、このスピリチュアルデトックスというCDには、チラシの説明を見ると、「食品、空気、水などから放射性物質をはじめとする、あらゆる有害物質」がターゲットになっている様である。このCDを日常に使用すれば、安心して3.11後の世界の食い物を食うことができるのだろうか?

 そのことが気になって、発売元に電話をしてみたのだが、コンセプトとしては、免疫機能の強化を通じて、有害物質を排除、あるいは、肉体の修復機能の向上が見込まれる、ということである。

 とはいえ、それが、医学的に証明されている訳ではないと思うが、今回使ってみて、蓄積疲労の程度を実感させ、解放する、という機能は果たしていると思う。

 自分を実験台として、日常の生活にこれを取り入れる時間を作りたい。

 余談だが、このCDの水準を筋反射テストで評価してみた。5トラックあるのだが、2トラックの途中から測ると、551、と非常に高い閾値が出た。しかし、3トラック以降は、さらに、「無限∞」と出た。いままで、測定して、無限と出たのは、自分と全ての人々を測定したとき以来の二度目である。そういう意味でも、面白い製品だと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-11 23:15
 意識の水準を0から1000の閾値で表し、筋反射テストによって、それを測定できる、と科学的に証明したと主張するのが、ホーキンズという人の書いた、「パワーか、フォースか」という本である。

 昨日は、国家の意識水準というのを測ってみたが、国家が測れるなら、企業や官庁や学校だって測れるだろう、ということだろう。普段は、その、企業や官庁や学校は、他人のことを測ってばかりいて、自分が測られることにはあまり慣れていないかもしれない。

 そんな訳で、こちらが、適当にそれらを測る、ということを実験してみたい。

 他人を舐めてる、と思う存在から測ってみたい。とりあえず、経産省なんか測ると、142から144と出た。意識の水準としては、えらく低いものだ。で、なんで、142から144というブレがあるかというと、経産省の役人個人の意識の幅があるからそうであるという。

 この閾値は、昨日のアメリカ合衆国という国家の意識と同じくらいの低さである。125と150は意識水準の分かれ目だが、125は、「否定」「失望」「欲望」「切望」「奴隷状態」。
150が、「執念」「敵対」「怒り」「憎しみ」「攻撃」の意識水準にあることを示している。

 本当にこんな意識の存在が、日本の官僚で、利権を握っていると思うと実に気持ちが悪い。

 今度そこの大臣になる枝野氏を測ってみる。221である。これは、新しい総理大臣の意識水準とほぼ同じである。だが、日本国の水準である254から較べると二人とも低い意識の水準である。ちなみに、前首相(管)は161。

 次は厚労省である。これも低い111から114の間と出た。近い閾値の説明だと、100がこんな言葉で語られている。「刑罰」「怯える」「恐怖」「心配」「引っ込み」とある。

 次は財務省。これも低い。151である。

 農水省は、141。どうして霞ヶ関は、こう意識水準が軒並み低いのだろうか。北朝鮮の意識水準とほぼ同じである。

 と、原発がらみの官庁を測ってみた。

 TEPCO東京電力、東電である。101から103である。厚労省より悪い。

 忘れていたが、保安院も。151から157である。

 原子力安全委員会は、141である。

 経団連は、というと、201から210と、かなり幅がある。企業による差が大きいのだという。

 経団連、ときたら、キャノンをやってみると、208。

 政党でやってみると、民主党は201、自民党が201。公明党が190、共産党201、社民党201、国民新党が201、平成維新の会160、みんなの党180、立ち上がれ日本147、新党日本141である。

 この「科学的」と証明されている測定方法が、本物であったとすると、怖ろしい結果である。

 昨日の日記も参照して頂けると、閾値の表現する意味を極めて簡単に紹介している。国家の意識水準のテストの結果も書いている。

 【追記】選挙の予備校、松下政経塾なんか測ってみると、172である。


 本日追記、忘れていた文科省であるが、今測ると、なんと79。怖ろしく低い数字だ。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-10 23:00

総理大臣の意識と9.11

総理大臣は、日本の復興・原発事故処理について、「日本の信頼回復」ということを第一に挙げている。こんなことをいうからダメなんだと思う。 (※当時野田が就任直後である。)

 最初にすべきことは、日本国民の安全を守る、ことなんではないの?

 新しい総理大臣の「日本の信頼回復」というのは、他人=外国から見える日本を意識しているものだろう。乱暴に言えば、「世間体」をとりつくろう、ということである。

 半分冗談で、総理大臣の意識のレヴェルを、「パワーか、フォースか」という本で主張している、「科学的な」方法で測ってみた。筋反射テストを使って、0から1000までの閾値で総理大臣の意識レヴェルを測れるか、と聴いたら、測れる、という。

 そこで、「500以上ですか?」と聴くと、それ以下。そうすると、数字はどんどん下がっていって、結果的には、「211」と出た。

 211という閾値の表す意味とは、9.11以前の人間の平均的な閾値であるが、高い水準とは言えない。ただ、「勇気」のある意識の水準であり、「肯定」的な感情を持ち、「能力」を持ったプロセスを体験する、ということだ。

 ちなみに、9.11以降は、世界の意識の水準は下がっている。200以下である。いまやってみると、196、ということである。

 余談だが、オレ自身は、このパワーか、フォースかの理論では測りきれないのだそうである。今でもそうだが、オレの意識水準は「無限∞」なのだそうである。

 そこで、では、他の人たちもそうですか、と聴くと、他の人たちも「無限∞」なのだそうである。

 で、そのことの意味を突っ込んで聴いてみると、「みんな、とらわれなく、もっと自由にやんなさい」という意味なのだそうである。みんな、ひとりひとりが神なのだ、ということを忘れないで欲しい、ということである。

 いま、オバマの9.11の追悼の辞を聴いているが、あんまり追悼になっている気がしない。オレがクリスチャンでないからかもしれないが。

 アメリカの状況は物凄くヘンになっているらしい。きのうNHKで観たルポで、「監視社会への道 愛国者法とアメリカ」という番組があった。監視社会というより、監獄社会である。ハイテクを駆使して、愛国者ではない、と定義づけられた人間の人権とか自由を剥奪してしまうのである。しかも、そのほとんどが、えん罪であり、濡れ衣であり、言いがかりである、という恐怖政治がアメリカでは行われているそうだ。

 ついでだから、アメリカ合衆国という国家の意識水準を、パワーか、フォースか、で述べられている「科学的」な方法を以て測ってみる。

 出た閾値は、何と134。アメリカ合衆国という国家の意識レヴェルは、125の「欲望」と150の「怒り」の間という、大変低い意識の水準である。それに関連することばをばらばらに挙げてみると、「失望」「敵対」「切望」「奴隷状態」「憎しみ」「攻撃」「否定」「執念」という言葉に象徴される。

 きのうの番組を観ると、まさしくそうだ、という言葉ばかりである。

 では、震災と原発事件の日本国の意識水準も測ってみる。

 出た水準は、254、という閾値である。これは、250という閾値に近いので、それをめぐる言葉を並べてみる。

 「権能を与える」「満足」「中立」「信頼」「解放」

 報道や日常の現実をみると、オレはとてもそうとは思えないが、この「科学的」な方法によると、国としての、日本国とアメリカ合衆国の意識の水準はまるで違うのである。

 実に皮肉なことなのだが、今聴いてみると、震災と原発事件以前の日本国の意識水準は、211と出るのである。これは、以前、この方法を使って測定された数字とほぼ一致する。現在の総理大臣の意識は、現段階では、日本国の意識の水準を大きく下回っているということになる訳で、本当に政府は大丈夫なのか、心配である。

 日本国の震災後の意識の水準の急激な向上は、危機に際して起こったものである、ということだ。254という数字は、たとえば、ブータンの252を上回って、世界で最も意識水準が高くなっている国家、ということになる。ブータンは仏教国であり、仏教を中心として成り立っている国家である。そして、現在では、幸福度世界一という国家の在り方をブータン政府は目指している。

 混乱から、意識の水準が上がっている国の一つが、やってみるとリビアである。251である。エジプトが244と出る。NATOも参戦して、事実上第三次世界大戦と言えるこの混乱が、やはり皮肉にも意識水準を急激に上げているのである。いつ何時どうなっても分からない中国は184と出た。北朝鮮は152。ということは、米国の意識は、北朝鮮よりもかなり低い、危険な状態なのである。

 では、それぞれ0から1000までの閾値で表現されると、どんな人の名前が挙がるか、代表的なものを挙げてみる。

 400は理性、を表現する閾値であり、アインシュタインやフロイトなどが歴史的な人物として挙げられるそうである。偉大な思想家は、このあたりの水準らしいが、科学者は、400の水準にとどまり、500に達することはないらしい。

 その500が表現しているのは、「愛」である。

 600が「平和」。超越とか、自己実現とか、神意識、を表し、1000万人に一人、という水準らしい。すぐれた芸術品や音楽や建築は、600から700の間の閾値になるらしい。

 700から1000というのが、エンライトメント=悟り、という意識に当たるそうである。800がマザー・テレサで、1000という閾値が、ブッダやイエスである。

 まあ、このパワーか、フォースか、という本が主張する閾値とその定義、そして、筋反射テスト=キネシオロジーという方法が、本当にどこまで通用するのか、オレ自身は疑問に思っている(~オレが、閾値では収まらない「無限」と出るからだ)のだが、米国の意識の水準、日本国の意識の水準をこの9.11から十年という区切りで測って比較してみると、何となく意味のある結果が出た様な気もするのである。

 受験じゃあるまいし、意識まで数字で測るのかよ、とオレ自身はこの方法とこの本に抵抗しているのであるが、意味ありげな結果が出る、という感想は否定できない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-10 03:09