あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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http://swnews.jp/

こんなときに、更新が不定期になる、ということであるが、太陽の様子が気になる。(※これは昨年の夏の終わり頃の記事です今日の太陽フレアとは別の記事です。)具体的にどういった規模で、どういった障害が発生するか、というのは、明日になってみないと分からない。

 太陽のくしゃみが直撃すれば、小さな地球がどんな影響を受けるか、というのは、気にした方がいいだろう。

 太陽の影響から、携帯やPCを守るために、アルミ箔くらいは持って出かけた方がいいだろう。と言っても、使っているときにやられたら、放射能と同じで、目に見えない相手であるから、実に困ったことであるのだが。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-08 22:13
 短いルポだが、国内の報道よりも、よほどまともだ。拡散希望。以下。

http://www.youtube.com/watch?v=VpdrvozDJJo&feature=player_embedded

如何に日本という国家、あるいはシステムというものが残忍であるか、極悪非道であるかが分かる。たったこれだけで。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-08 02:09

近所のお祭り

 近所の阿波踊りのお祭り。何で都内で阿波踊りなのかよく分からないのだが、なんだかんだ言って、阿波踊りというのは凄い。

 同じ様でいて、実は多様性がある。

 今日などは、極真カラテの人たちが、踊るというより、演武の様なことをしていた。流石に、パーカスの人材は少ないのか、それをホイッスルで補っていた。あるもので足るを知る、ということなのか。でも、せめて体育会系の笛ではなくて、サンバホイッスルくらいにはして欲しかった。まあ、それは、極端な目立ちたがりの系だとは思うが。

 凄いと思うのは、やっぱり子供たちの学習力。こんなんずーっと続けたら、芸にできてしまうんではないか、と思うことが多かった。

 特に、パーカスの鐘をやっている子で、ひたすら拍を打つ男の子がいた。あれならほとんどスティーヴ・ライヒの曲が演奏できる。長時間に渡って、少しも乱れなかった。もちろん、他のパーカスがいるから、できた、というのはあると思うが、何か賞をあげたい。

 ちなみに、彼女は、『この狭い地域でこれだけの多様性を持つことができるのは凄い』という。ただ、彼女の星の音楽とか舞踊というのは、もっと繊細というか、幽玄といった趣があるそうだ。オレもぜひ聴いてみたいものである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-06 22:43
http://www.youtube.com/watch?v=pp4pMb921sw&feature=player_embedded

小出裕章助教への最近のインタビュー 音声13分ほど

東電は画に描いた餅、国はただのバカ。共通しているのは、人のことを人と思っていないという点。そのツケがオレたちに回ってくる。

自分にウソをつきながら生活している人間は、他人を人間だと思わなくなる。最近の一般的な傾向でもあると思うが。

カエサルものは、カエサルのところに。東電のものは、東電のところに返しなさい。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-05 23:51
 友人から、嬉しい連絡が入った。買い損ねた、シベリウスの自作自演と言われた音源が出てきた、という。

 この音源は、作曲家の吉松隆氏によって、FMで三度くらい取り上げられた演奏なのだが、後に、シベリウス自身の音源ではないことが発覚し、そのせいか、店頭に並ばなくなってしまったのである。

 うっかりしていた。こういう発掘された音源にはこういうことはよくあることだ。

 だが、誰の手による演奏であっても、偉大な演奏であることに変わりはない。

 とはいえ、その後、本人の音源として出てきたものを今度こそ、と購入したが、吉松氏の紹介した音源とはまるで違う演奏だった。

 友人によると、こういう古い録音というのは、リマスターの具合で、幾らでも変わってしまうので、リマスタリングの問題がある可能性はある、と言っていた。

 しかし、年に一度は、あるアマチュアオケの、フェスティヴォを立派なライヴで聴くことができる。この演奏もまた素晴らしい。

 自分が死ぬ前に聴ける音楽があるとすれば、この曲はありがたいかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-04 23:23
 短いルポだが、国内の報道よりも、よほどまともだ。拡散希望。以下。

http://www.youtube.com/watch?v=VpdrvozDJJo&feature=player_embedded

如何に日本という国家、あるいはシステムというものが残忍であるか、極悪非道であるかが分かる。たったこれだけで。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-03 23:43

いろんな「言い分」

 深夜にメシが食いたくなる、というのは、どういうことなんだろう。きょうは普段よりは、贅沢をしている。夕方、というか、朝から夕方まで食っていない訳だが、松屋のトマトカレー。これが、実はかなり食える味で、癖になる。夏はずいぶんお世話になった献立だ。

 夜、と言っても、もう九時を過ぎていたのだが、近所のお魚やさんのお寿司、半値で出ていたので救出。とはいえ、本当に食いたいものだったのかどうかは不明。たまには、握りでも、からださんに食ってあげよう、という感じ。

 で、いま、また食いたくなってきた。でも、いったい誰が食いたいんだろう、と思い、自分さんのいろいろな部分に聴いてみる。

 まず、からださんが食いたいという訳ではなかった。頭脳さんでもない。

 食いたいのは、自我さんと、煩悩さんであった。他の人は、この夜中に食おうとは、考えていない。

 ということは、生理に対しては、自我さんと、煩悩さんは、過剰である、ということになるのだと思う。(そうだ、と自分さんは答える。)

 松屋のトマトカレーは、普段どうかというと、自分さんのいろいろな部分が欲しがっている場合が多いので、その言い分を聴いて、食うことになる。同じ値段でも、ブタめしとかは、ほとんどの存在は、食いたいとは言わない。オレがオレと思っているオレが、食いたいと思っても、合議制による採決であると、ぶた飯を食いたいと思っているのは、大抵は煩悩さんである。

 食う、という行為は、生理的な様でいて、実は、煩悩さんに突き動かされている場合が多い。煩悩さんに限ったことではないが、本当に必要な分だけ食べる、ということを考えている存在は、自分のなかにあまりいない。(そうだ、と自分さんが答える。)

 言い方をかえると、生理的、と思っている部分というのは、実は生理ではなく、生理さんでもなく、別の存在の言い分にまみれた生理さんでしかない。

 別に、生理に戻らないといけない、とは思わないが、つましく生活していくためには、本当に必要なものだけを食っていく、という方針が必要だから、生理さんの言い分というのは、最大に聴かないといけない、というだけのはなしである。

 ただ、食うことに喜びもないといけないので、たまにはお寿司も食うし、夏はトマトカレーも食う、というだけの話なのである。

 ただ、極められるなら、極めてみたい、ということはある。

 それは、どんなメシであっても、その「いま、ここ」では、最高の食い物として受け取る感覚というか、時空という幻想を超越した感覚である。それが、ある意味では、夢である。

 人間というからださんを持つ生き物として、食い物というのは外すことができない。逆にいうと、人間という存在のいちばんコストのかかる部分は食い物なのである。くわなければ、点滴でもしない限り死んでしまう。

 毎日納豆でも飽きない、とか、トマトカレーでも飽きない、というのは、ある程度、「いま、ここ」での味覚が感じられているからだろう。そうでなければ、こんな単調な食生活が続く筈がない。あるいは、そうでなければ、著しく感覚鈍磨・感情鈍磨している、ということになる。だが、後者の場合ではないと思う。

 思ったよりも、感謝という態度があって、いま、ここで、食い物に対峙する、ということができているのだと思う。まだ先が長いかもしれないが。

 食うというのも、修業のうち、といえばそうである。修業のつもりでやっている訳ではないが、その感じは否定はできない。

 理想をいえば、自在に食うことであるが、オレにはその余裕がないのと、極めた食い物をあまり知らないので、オレが目指せるところではない。

 だが、味覚がほかの感覚を規定する、ということはある。だから、あまり単調に食う、ということは、あまりいいことではないのではないかと思う。

 もうちょっと、気楽に、いろいろな食い物に手がだせると嬉しく思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-02 23:28
 日曜は、排水溝清掃の日だった。業者さんに来てもらい、団地で一斉に全部の部屋の排水溝まわりを清掃してもらうという日だ。

 原則として、全ての部屋をやる、あるいは、そうでないと意味がないのだが、入居してから、全部屋が清掃された、という話を一度も聴いたことがない。だが、どこかで詰まれば、一棟全てに影響が出る可能性があるので、年に一度のこの日は、出かけることができない。

 その清掃業者のサービスの一つとして、団地の廊下の隅にある排水の側溝と排水溝が、高圧をかけた水で掃除されるのがいつものことだが、さっき見たら、妙なことに気がついた。

 いちばん雨などの排水が集まる排水溝の清掃が、あまり入念とはいえない様子であった。これが物凄く気になる。

 というのは、放射性物質の溜まりやすいところは、その排水溝であり、今回の原発事件で啓蒙されている通り、マスク着用、服もできれば百円ショップで売られている様な、ビニールの衣類を着用の上、排水溝を入念に清掃することが必要だ、と呼びかけられている。(とはいえ、清掃すれば、今度は地面や路肩の排水溝に集まるし、その先は、また、放射性物質の線量が高い汚泥を生むことになる。)

 実は、オレは、先日の児玉龍彦教授の国会での参考人としての発言などを聴いて、福島で除洗の人足になるか、と真面目に考えているのである。

 オレみたいなB級市民で、世の中のお役に立てることといったら、これくらいだろう、と思っていた。原発事件の当初は、原発の作業員に志願しようとすら思っていたのだが、状況を調べると、これでは、オレが行っても、邪魔になるだけだ、と結論して、止めた。

 しかし、まだ、除洗となると、かなりの広域に手をつける必要がある。福島の現地の人たちだけでは、到底頭数が足りないであろう。被爆量が増えるのは、覚悟の上だが、オレはインディゴらしいので、DNAは放射線に強い、新型のものである様だ。

 だが、ちょっと考えた。今回、団地の排水溝の除洗があまりされていない、というのは、業者の責任者が、社員、あるいはそれに準ずる現場の人たちに、「あまり排水溝を水圧をかけて洗うのは危険である」と言っているのかもしれない。キレイに高水圧で洗われた側溝部分と、排水溝の汚れ具合の違いは、一目で分かる。

 ということは、都内の排水溝の除洗だけで、かなり危険だ、と専門業者は判断しているのかもしれない。これはあくまで憶測であるが。

 もう一つ、重大な発言がある。それは、やはり国会で参考人として招致された小出助教によれば、「除洗ということは、そもそも不可能である」と重ねて発言していることである。

 小出助教によれば、子供たちが過ごす場所は、入念に除洗する必要があるが、田畑や森や林や草原や牧草地を除洗することは、不可能であり、田畑にそのようなことをすれば、田畑は命を失う、というのである。

 それに対して、児玉教授は、南相馬で線量の計測、並びに、除洗活動を続けている、というし、やはり参考人として発言した武田邦彦教授によれば、除洗は可能だ、というのである。

 原発関連の専門家の発言というのは、ウソが多い、ということは、現在では多くの人が理解している訳だが、そうではなく、信頼できそうな専門家というのは、小出氏、児玉氏、武田氏、の三人くらいしかいない。少なくとも、特にネット上、あるいは、ミニコミを通じて発言を続けているのは、この三人しかいない。

 ところが、この三者の除洗に関する結論は、三者ともまるで違うのだ。小出氏が情報としているのは、国と東電の発表が正しければ、という条件付きの分析であり、その発言は、ある意味で厳密主義と子供に対する人道主義の観点からする、発言である。

 児玉氏については、助教である小出氏と対照的に、東大のアイソトープセンターというところの責任者であり、南相馬という現場に週末出向いて、細かい現場の状況から考えて発言している人である。武田氏については、本人の言葉を借りると、「日本のおとうさん、の立場として、考える」とどうすべきか、という観点から発言しているのである。

 その様な訳で、信用できそうな三者の、除洗についての結論がまるで違うのに、困った。オレが、じゃあ、オレがやる、とか思ってしまうから、困ったのだが。

 そうなると、もう最終的には、信条の違いと、自分のカンから判断することしかできなくなる。

 きょうの、排水溝清掃の細部の状況から憶測すると、どうも、都内すら除洗作業というのは、そんなに甘いものではないらしい、ということと、誰も責任を取りたがらないでいる、ということが言えそうなのである。

 オレはこんなに真面目に考えているのに、国は、経産省や農水省は、電話で担当者の話を聴いたり、ネットで情報を見たりする限り、まるでバカで、責任を取るつもりなどないことは明白である。その経産省の大臣であった人物が首相になりそうだ、などという報道があるが、これは全く許すことのできない事態である。

 こんな状況で、よく革命が起こらないな、暴動も起こらないな、とオレは全く不思議に思い、呆れている。忙しいフリをして、他人事にしている人が多すぎるのではないか、と、オレには全く理解のできない状況である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-01 23:34
 古くからお世話になっている近所の先輩と会った。先輩となかなか最近会えなかったのは、先輩が「疑似ぜんそく」という病気にかかってしまい、電話で話をするのも辛そうな時期が続いたからである。

 二人ともパイプを吸うのであるが、パイプは大丈夫なのだという。パイプや葉巻の場合は、口のなかに入れるだけで、肺や気管に吸い込むということがないからである。

 という訳で、久々に煙りを交えたのであるが、先輩と吸うのは格別である。

 ポメラの自慢をして、それから、エックハルト・トールのStillness Speaksをみていただいたのだが、OSHOのシリーズと似通った内容だ、という証言をいただいた。

 OSHOはまだ一冊も読んでいないのだが、とりあえず、トールの言う通り、ゆっくりとStillness Speaksを読んでみようと思う。

 トールのこの本についてのレヴューを比較的最近アップしたので、よかったら、ご覧頂きたい。邦題は、どうしてこんな邦題にしたのか不思議であるが、「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」というものである。

 以前のエックハルト・トールの翻訳は、監修者として飯田史彦氏という人が絡んでおり、日本人に誤解を与えないように、などという理由で、翻訳されていない部分があったりする様だが、「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」については、そうした余計な手が入っておらず、却って読む気になったのである。

 飯田氏の問題は、トールの主著の一つであろう、Power of Nowに強くあり、以前、フェルデンクライス・メソッドの先生からこの邦訳である、「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」という本頂いたのだが、この監修の前文を見るだけで、言い訳が多くて、本文を読むのがイヤになってしまった。この本については、飯田氏の手の入っていない、再邦訳を期待したい。

 嫌な言い方をすると、飯田氏の監修というのは、著者に対する厚意のつもりであろうが、それはむしろ冒涜であり、読者の力を信頼していないのではないか、という印象がある。

 Amazonのレビューをみると、飯田氏は、どこの派閥や宗教にも属していない、ということを売りにしている様だが、そのこと自体が、一つの立場を主張していることになる。

 元来、人間というのは、何者でもないものになる、というのは困難なことであり、それこそ、Stillness Speaks的にいえば、人間の行き着く意識の最終的な在り方は、時空という幻想をはなれて、「いま、ここ」をただ観る、ということになる筈である。飯田氏は、その監修という行為によって、トールが本来主張していることをねじ曲げていると考える方が真っ当であろう。

 その様な訳で、残念ながら、Power of Nowに触れる気がしない。言葉ができれば、原書を読みたいものだが、残念ながら、自分にはその能力がない。トール氏ではなく、飯田氏の作品という視点から読めば、そういうものとして読めるかもしれないが、ならば、あまり言い訳はしないで欲しいものである。

 翻訳者というのは、別の仕事でいえば、音楽の指揮者の様なものである。ちょうど今、アバドがブルックナーをやっているが、アバドがブルックナー?というだけで、先入観を持ってしまうものだ。翻訳もそうである。

 オレ自身が、彼女の言葉やイメージを、日本語にしているところだから、翻訳者というものの立場というものを分かる気がする。オレとしては、彼女の伝えてくれることに全幅の信頼をもってやることがいちばん大切だと思っている。それに、間違っているという点については、ちゃんと具体的に、ここはこうして、という具体的なアドバイスがあるので、それで腹をくくっている。

 発信者に対する信頼、読者に対する信頼、というのものが、翻訳者にとって最も重要な魂の在り方ではないかと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-01 00:47
 ある先輩がサントリーの現代音楽のお祭りに招待して下さった。大昔は、このシリーズには通っていた。

 テーマは、ある中国系の作曲家の特集だったのだが、湯浅さんの「芭蕉の情景」が演奏された。いちど生で聴いたことがあるが、これがはやりいい曲だった。

 肝心のテーマになっている、ジュリアン・ユーという人の曲は、あまりセンスが合わなかった。

 どの辺に違和感があるか、というと、西洋音楽の派生物、という感じで、構築的で、よくも悪くも、西洋音楽を発展させる、という使命感を持って書いている様な感じがするのである。

 だが、最後に演奏された、サントリーの委嘱作品は、どういう訳か、あまりに媚びすぎ。サントリーに媚びているのか、お客さんに媚びているのかはっきりしないが、妙に分かりやすく、そして、当てつけをしているんではないか、という印象。

 曲名は、交響組曲 我らの自然界のために、というもので、この題名からすると、時代に媚びている、と言った方が適切かもしれない。あるいは、中国人だって、環境のことは考えているんですよ、と言っている様な妙な印象を受けた。

 材料は、過去の作曲家の引用だったり、クジラの声を出させてみたり、と、どうもあまり好感を持てなかった。よく言って、商業音楽の類という感じだ。

 その点、湯浅さんの作品は、純音楽という感じで、自由で即興的。日本の風土を感じさせるものだ。それで自然に聴けるのかもしれない。

 自分の感覚を確かめる結果となった時間だった。

 マイミクの先輩からは、手巻き煙草を教わった。これがなかなか楽しそうである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-27 23:33