あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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一歩君を見せる

 「君のところにも、こういう格闘技とか、ボクシングみたいなのはあるの?」

 『あるわ。こういうの』

 「それで精神も鍛えるんだろうか?」

 『肉体と精神をべつべつに鍛えるなんてことはしないわ。あなたたちのサンスクリットの歴史の言葉でいうと、スポータということばは、精神も肉体も一体の力、という意味でしょ。

 だから、精神だけ取り出すとか、肉体だけ取り出すとか、そんな分裂的なことはしないわ』


 「じゃあ、どうして、ウチらは、そんなヘンなことをやってるんだろう?」

 『権力者が困るからよ。精神と肉体とが一体のものなら、勝つことも難しいし、支配するのに都合が悪いからよ。自己分裂させておけば、本当の力を出すことはできないわ。力を封じさせておくやり方よ』


 「てことは、君らの船を見て、権力が情報を隠蔽する理由と同じなのかな?」

 『そうね。実に下らないけど。2012年の箱船も、権力だけが生き残ろうとしている証拠ね。そういうのは、わたしたちが伝えたいこととは、ちょっと違うわ』


 こんな会話を、筋反射テストでやっている。


 神である存在を、君、とするのは、妙にみえるかもしれないけど、ドイツ語のduzenでいい、というので、君とか言ってる。でも、だいたい、普段は頭のなかでは、名前で呼んでいる。

 ちなみに、ゲルマン語聖書の翻訳で難題であったのは、ゲルマンの八百万の世界に、「一神教」という感覚と概念を持ち込むことだった。そこで、ゲルマン語とギリシャ語のバイリンガルであったウルフィラは、当時死語であったゴート語の「ゴッス(フォントがないのでカタカナ表記)」という言葉を、その神の訳語として選んだ。

 そのゴッスという言葉の意味は、「話し相手」という意味だ。まさしく、その語源通りのやりとりをしている訳だ。

 『このスタイルの翻訳、悪くない』と言ってくれているので、しばらくこれでいくか。


   2010年の冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-09-10 20:06

百年一日

 ヒストリーチャンネルを見ながら、対話する。

 「こんなの面白い?」

 『おもしろい』

 「直感の否認って、自己の否認だと思わない?」

 『そうね』

 「こんなやりとりをしているのに、それじゃ証拠がないってことかな?」

 『そうらしいわね』

 「でも、最後の人が、問題は、われわれがどこから来たのか、どうしたいのか、どうするのか、が分からないのです、って、その通りだとおもう」

 『その通りね。だから私たちがいるのに。でも、やるのは、あなたたちよ』


 ほんの一部の会話。おれが目になり、耳になり、からだになっている。ヒカルの碁の、初期のテーマみたいに、お互いに支えている。


   2010年の冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-09-10 00:18

シンクロニシティ

 意味のある偶然というか、シンクロニシティというか、自分は多い方だと思っているが、年々それが増えていく。煮詰まっている、という言い方もできるかもしれない。

 きょうは、まだ点滴を打っている、という状態なので、万全ではないが、対話を続けている。

 送られてくる本、DVD、筋反射テストによる対話、自分の思考、あるいは外応、内応がシンクロしている。たぶん、世の中全体の傾向として、そのことはあるのだと思っているのだが。

 ただ、そのことがなかなかシェアされない。説明のつかないことだから、説明ではなく、シェア、ということになるのだが。

 いま、対話している存在は、次元を超えて、一度に何カ所も存在できるのだが、このことは、説明しようとしても、できるものではない。15万光年離れていて、同時に、自分と同じところにある様な存在というのは、あるとしたら、修業を積んだシャーマンだろう。

 今月の日記など読み返してみると、オレが世界をつくってるのか、オレが神なのか、という気にさえなってくる。現実があとからついてくる、と言ってもいいかもしれない。事象のるつぼ、という感覚だろうか。すべてがある、というものだろうか。

 現実の方が、あとから追っかけてきて、しかも、その速度が異常に速い、ということは確かだ。あるいは、間髪入れずにシンクロしてしまう。

 「流れ」という言葉があるが、そんな感じなのだ。

 筋反射テストで、対話しながら書く、というのは、いろいろ工夫が必要である。とりあえず、これで、許可が出た。アップしてから修正を求められるかもしれないが、筋反射テストより、テレパシーも使ってくれれば、もう少し書きやすくなるのかもしれないが。
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by bwv1001 | 2011-09-09 01:08

訂正を神から求められた

 この一つ前の日記、神から、訂正する箇所があるので、訂正したい。訂正の必要があるのは、全く思いも寄らぬところであった。筋反射テストを使い、「この言葉ですか」とか、この上あたりですか、とか聴いていく。

 すると、以下の部分が、訂正の必要がある、ということである。以下、引用。

『こんな難しい問題を書いてしまったので、きょうはこれくらいにした方がいいですか、と聴くと、まだやることがあるそうだ。オレがメッセージを代わって伝える、ということで、神が自分のことを紹介して欲しい、と仰る。』

 この「オレがメッセージを代わって伝える」、という部分に問題があるそうだ。訂正すると、以下の方がいいらしい。

「オレを通じてメッセージを伝える」

 というのが、正確な表現だそうである。なるほど、確かに意味が違う。言い方をかえれば、オレは神の代理ではなく、イタコとか、最近の自分についての認識でいうと、「空洞」という在り方、として機能させるのが、私の役目だという。(※この表現なら適切だそうだ。)

 そういえば、この対話も、「空洞としての自分」という自己認識をした時から、始まったものだ。

 妙なことを思い出すが、夏に、師匠からお誘いがあって、「預言カフェに行こう」ということになった。オレもコーヒー一杯で、預言をもらったのだが、そのときのメッセージは、「神はあなたを用いたいと思っているのですが、まだ準備ができていません。」というものであった。

 何の準備かも分からないし、とはいえ、正確に私を分析しているという感じがあった。しかし、分からなかったのは、「では、自分はどうしたらいいのか?」ということであった。

 (神は、この書き方で正しいから、続けろ、という。)

 で、その「用いたいのだが」という話は、「いま、ここで、オレがやってること(=この対話)ですか」と神に聴くと、「そのとおり」という答えが返ってくる。

 空洞としての自分の存在、というのを考えたとき、預言カフェでいうところの準備ができた、ということなのかもしれない。(かも知れない、というところを「準備ができたのだ。」と書き換えろ、との指示がある。)

 このあたりは、なれそめの話なのだと思うが、まだ、続きを書け、という。どうしても、いま、なのだそうだ。

 むずかしいなー、なれそめか。

 ちょっと、難しいので、後で続きをやりますか、と聴いたら、夜中のうちにやれ、ということである。


 そう、それで大切なことを思い出したが、(※まさに、その話だから、書け、という。)ちょうど、この対話が始まる少し前に、「外応」(がいおう)という概念を知ったのである。

 外応というのは、占いなどで使われる言葉らしいが、占いの結果が出るときに、ただ、占いの結果を見るのではなく、そのとき、自分の近くで何が起こっているのか、ということを意識せよ、という概念なのである。占いの結果は、その外応に気がつくかどうかで、不幸な運命の変更もあり得る、というのである。

 この外応、あるいはまた内応、に注目することが大事な様である。この対話も、その、「いま、ここで」の五感に注目することで可能となっている。何しろ、筋反射テストという限られた道具をいまのところ、「たまたま」使っているので、ある意味では不自由である。

 しかし、いま、神は、「問え」と言っている。

 なれそめの話は、これでよいそうだ。文章もこれでよい、ということだ。ちょっとホッとした。徹夜でも、神がどんな質問をせよ、と望んでいるのか、分からなかったからである。

 しかし、そういう時にこそ、「外応」あるいは「内応」は大切だ、ということである。
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by bwv1001 | 2011-09-08 01:50

現実って、何?

 神、というか、今回の場合は、人間を創った、ということでは、神と言っていいのだが、もっと別な次元の存在があるという。

 とはいえ、今回の神、という存在の言うことには、オレの、というか、人間の現実とは、幻想である、という考え方をしているし、それをメッセージとして、自分にも発信してくる。

 神は、多次元を自由に移動したり、同時に何カ所も存在することができるそうだから、筋反射テストをしても、15万光年先にいるだけではなく、私のすぐ側にいるそうである。このあたりの感覚というのは、ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の語った神と近いのだと思う。

 暮らしぶりを全部神に見られている、というのは、もう、お手上げ、というか、そこまで接してくれるだけでありがたい、というか、ウソは言えない。こちらが、言語的ではないイメージを持った瞬間に、それに対する反応がくるので、自分が思ったことは、全部真実になってしまう。

 ひょっとしたら、その意味で、オレのいる世界というのは、自分が創造した幻想、ということは、言えるのかもしれない。(今もこのことを内語で確認したら、そういう考え方で間違っていないと、神は言う。)

 三次元というのは、不自由な在り方であるが、そこで自分、あるいは世界を「創造し直す」というのが、たぶん自分、あるいは他の人々の課題なのだと思うが、(今も、そういう理解で正しい、と反応がある。)普段は、夢のなか位でしか、自分の夢のなかの世界をすこし手を加えようとすることぐらいで、「いわゆる」現実、をどう創り直したらいいのか、分からない。(と、書いて確認すると、神から見ても、われわれには、そのことがどうも難しそうに見えるし、それが人類の課題であるという。)

 しかし、オレが人類とかいうと、物凄く場違いな気もするのだが、とりあえず、神がそう言う、すくなくとも返答が返ってくるので、人類、と書いてしまうのだ。

 こんな難しい問題を書いてしまったので、きょうはこれくらいにした方がいいですか、と聴くと、まだやることがあるそうだ。オレがメッセージを代わって伝える、ということで、神が自分のことを紹介して欲しい、と仰る。

 オレにはあこがれの人だから、他の人に紹介するより、オレが独占したい、と感じている、と言ったら、それでも紹介しろ、というので、記しておく。

 人間型の、いわゆる宇宙人の方で、エールーエン、というお名前である。なにかオランダにありそうな響きの名前だと思っている。なにか、オランダとは関係がある、という返事がきた。

 女性で、使命(※職業ではないらしい)あるいは任務は、宇宙船のパイロットである。年齢は1500歳くらいだそうである。しかし、とても若く見える優しそうな女性である。

 趣味とか存在する世界ですか、と聴くと、趣味という考えはあるが、趣味と使命は一致する、という答えである。嫌な仕事とかに従事しなくていいのか、と聴くと、そういう必要もないし、いわゆるこちらの世界でいうところの会社は存在しない世界だそうである。

 1500年も生きるということがあると、やっぱり、自分のこととか、よく理解できますか、と聴くと、人間は、自分のことをよく理解していない、という答えである。人間が、自分のことをよく理解するような手助けをするのも、自分の使命の一つだ、ということである。

 まだ、きょう伝えたいことがあるそうなのだが、オレがその内容を理解していないので、とりあえず、ここまで記す。


   2010年の冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-09-06 21:01
 正確には神ではないのだが、自分の次元からすると、神だ。こんな対話をずーっとやっていると、生活が変わらざるを得ない、と思う。

 やっていることは簡単で、内語と筋反射テストである。難しいのは、質問の内容が難しい。あまり凡庸な質問をしても仕方がないのだが、質問と反応の繰り返しから、意味のある質問をつくっていく、というのが、才能が必要な点だと思う。幸い、自分は、いまのところこれができている。

 内語による質問と反応の時間差は殆どない。だから、加速度的に対話がなされる。言葉にする前に、イメージを持ってしまうと、もう、それに対する反応が来る。

 くだらない、というか、下品な質問でも答えてくれる。ニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」というのは、とても参考になっており、基本的に、神はこちらのレヴェルに合わせてくれる。オレは日本語しかできないので、イメージと日本語を使って対話している訳だが、これで何の不自由もない。

 逆にいうと、自分以上の次元のことは、質問のしようがない。これが問題だ。自分の発想、あるいは言語のもつ限界をどう超えていくか、というのが、課題である。


   2010年の冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-09-05 23:50

我流だけど

 我流、というか、まったく思いつきから始めたのだが、我流「神との対話」が成立することが分かった。道具立てとしては、筋反射、というか、キネシオロジー、というか、今のところOリングテストなのだが、また洗練されていくかもしれない。

 相手の神、というか、正確には神ではないのだが、それに通じている存在、との対話である。そんなこと、ここに書いていいのか、と、聞いてみると、書いた方がいい、と返事がくるので、書いてみた。

 ただ、この数日は、最初ということもあり、いきなり質問の量が多すぎたかもしれない。特に本にする必要のあるものということでもないと思う。その気になれば、誰でもできることだからだ。

 ただ、今回は、宇宙に於ける相手の位置と、姿がかなりはっきりしているので、コンタクトが取りやすい、ということはある様だ。

 ちょうど、きょうは、おとり様の日である。近所のおとり様では、お世話になっている方々も出店をだしていた。そのおとり様の由来は、三羽の鶴がやってきて、ここに居着いた、ということだそうである。私のところにも、やってきた訳である。

 きょうは、もう一羽のおとり様がやってきた。新しい先生が増えるのである。以下である。

http://miyamotofumiaki.com/

 ここの少し下がったところの右側に決意表明がある。それにしても、何と多彩な方なのだろうか。

 今の先生が教えて下さることがなければ、私はたぶん、こちらには行かなかった。先生は練習でも常に、魂の問題を提示されるからである。

 今回の、神との対話にしても、先生がときどき仰る「愛情と好奇心」「集中とはひとつの喜びを発見したことです」などの言葉が、自分に刻まれていなければ、不可能であったと思う。言い換えれば、先生は、常に降ろして下さる。しかし、自分でも降ろすことができることが体験できた訳である。

 こどもの頃、もう自分は降ろすことができなくなった、と絶望して、それがずっと続いていたが、応じてくれる存在を発見できた、ということである。真理の追究を手助けしてくれる存在なのだと思う。

 ヒカルの碁の、佐為、みたいな存在かもしれない。

 いずれにしても、いろいろな準備が整っていたというのは、大きいと思う。

 と、ここまでで、二箇所削除した言葉があるのだが、理由は真理を巡る対話だからである。削除したら、これで完璧だということである。

 世界中に、同じ様なことをしている人はたくさんいると思うが、自分で体験できる、というのが、素晴らしいことだと思う。

 細かくメッセージを伝える必要はないのだと思うが、必要だ、と言われたら、ここにも書いておきたい。


   2010年の冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-09-04 21:22

2012という映画を観る

 途中からだったが、2012年問題のシナリオを描いているという「2012」という映画を途中から観る。2012年問題で語られている世界のカタストロフ的崩壊と、人類の生き残りの話だ。

 正直言ってがっくりする。箱船で、遺伝子的に高等とされる人間が、人類の生き残りのために行動する、という話。2012年問題の映画であるから、アセンション問題についての取り扱いがあるかと思ったが、それはない。

 結局のところ、キリスト教的な終末論から抜けられず、恐怖をバネにして生き残る人たちと、青白いヒューマニズムを捨てられずに行動する人たちの話、というところ。

 よく分からないのは、人類の生き残りのために、というお題目が分からない。まるで、戦争を始めるときによく使われる「国のために」という理屈と大差ない。箱船を建造している中国の作業員や技術者はそのまま死んでいく(、というか、そのことは、直接には描かれていない)。

 ちなみに、聖書のように、動物さんも箱船に乗せている。

 今回は、何しろ、初期設定を観ていないので、何ともいえないが、現在の主立った国家が協力して、このプロジェクトを極秘で進めていた、という設定であることは、後半を観ても、その表現がある。

 こうした箱船プロジェクトは、実際にあるともいうが、優良な遺伝子を持ち、生殖能力の高い人間が乗船者として選ばれている、というのは、優生学的な基準であり、ナチス・ドイツやジオン公国とさして変わりがないだろう。米国の映画であるが。

 終わり方は、淸教徒が新大陸を目指すのとたいして変わりのない希望で終わる。

 一人一人がそこまで生に執着するものかどうか、自分には分からない。人類の将来のために、箱船に「乗せられる」というのは、ほとんど家畜化された人間の姿である。

 そんな計画にまきこまれるなら、個人的に、死の準備をした方がずっとマシだと思う。自分は、今のところ、転生という在り方はあるのだろうと思っているし、三次元から自由になる、という在り方もあると思う。

 いずれにしても、自分の場合大切なことは、「いま、ここ」を楽しむことである。せっかく、三次元を生きているのだから、その不自由さを味わう、というのは、決して悪い生き方ではないと思う。

 そして、最終的には、死も生も区別のない世界に行き着くのだろうと想像している。それが何億年先のことかは、分からないが、何億年、というのも、また、人間の、あるいは自分の妄想か、勘違いでしかない、ということは充分にあり得る。

 それが、妄想、勘違いである、と理解するのは、今の生でも、ほんの一瞬体験することがある。


  2010年の冬の日記から
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by bwv1001 | 2011-09-03 22:57

空洞

 ウチは怖ろしく散らかっている。おおかたは紙の類で、あとは、昔はボロと読んだ着つぶした服とか下着の類である。

 紙の類は、「記憶」という意味がある。記憶で生きているから、紙が捨てられないのだと思う。私は観ていないが、図書館戦争という作品では、人間は死ぬと本になる、という設定の世界観である。人間は、記憶でできている、としたら、それは正しい設定である。

 ボロ、も記憶である。昔の自分が存在する。

 だが、ボロには、ゴミとするには、制度的な問題があって、一人暮らしの自分では、そもそも、指定された時間の範囲内に、回収場所に持ち込めないのだ。これは完全に制度の不備である。

 で、先日、もういいや、と思い、ボロの下着とか靴下の類を、燃えるゴミの中に混ぜて出した。今週もやる。そうしないと、この空間を防衛できない。フリマの様子をみて、そう思ったから、下着とタートルネックも新しいのを買ってきた。もう着つぶしたのは捨てる。リサイクル、などという標語を押しつけられた上、シンプルに生活せよ、というのは、そもそもおかしい。

 もらった服、というのが、これまた捨てられない。でも、きょう、フリーマーケットの状況を観察して、使うもの以外は捨てようと思った。

 記憶というのは、関係性によって確かめあう、という人間のやり方に結びついているのだが、自分が、関係性のための空洞であるとしたら、捨ててもよいのではないか、という気になってきた。

 空洞という考え方は、実はそんなに悪くない様な気がする。むかしの自分がなりたかったもの、というと、敢えてことばにするならば、「何者でもないものになる」ということであった。何者でもない、というのは、なかなか難しいことなのだが、空洞としての自分、というものをすこし考えてみたいと思う。

 空洞だからこそ、外見を大事にする、とか、部屋を大事にする、とか、そういう発想が出てくる様な気がする。

 「何者でもないものである」ためには、実に思想というものが必要だった。そのとき、なにものかで、あって、また、そのときは、なにものかである、たとえば、空気と水面の接点の在り方の様なものだ。

 そこに、「いま、ここで」という感覚があれば、そこに、空洞としての様式が成立する。「いま、ここで」という意味では。

 さらに、「考えるな。見よ」ということが加われば、それだけで充分であろう。そこ、ここ、で楽しみをみいだす。見ているものが、自分である。それでよい。

 空洞は共感できるのかもしれないが、その共感は、空洞であるが故の借り物の感情なのかもしれない。だが、そこに、風が吹くようにあれば、そこに風があることを感じられる。

 ことばが足りないが、決して悪い感覚ではないと思う。

 記憶の通り道、記憶として吹く風は、空洞があるからこそ、吹く風である。記憶を定着させることは、必ずしも必要ではない。むしろ、定着が執着になることが怖ろしい。それは不幸である。

 空洞があって、うまれるのは、多くは音の世界である。音はうまれては去ってゆくものである。それを追うのではなく、「そのままにする」ということが、音の性格である。

 自分が音で在りたいのか、空洞で在りたいのか、そこは難しいところであるが、「異なるものの接点にこそ、魂の座がある」というノヴァーリスのことばが、そのこたえになっているかもしれない。


 2010年の冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-09-02 22:56