あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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「それが望みかい?」

 「もう一度テーブルに金をならべ、人生を賭けてみる」

 グッド・ウィル・ハンティング、また偶然に観ちまった。正月もそうだった。

 観ていて辛い場面もある作品だが、どうしても観てしまう。

 と、書こうとしていたら、彼女が口をはさんでくる。ちょっと聴いてみよう。

 「どう、この映画?」

 『あなたは、必要みたいね。でも、これは作品自体が悪いという意味ではなくて、あなたにとっては、いい作品ではないわ』

 「て、いうと」

 『内容が悪い映画ではないわ。でも、もう、あなたには必要ないの。よくいえば、あなたにとっては、過去であって、おもいでだわ。ただ、あなたは、もう、この作品を観て、共に生きる必要はないの』

 「オレが、この映画を観ていて、いちばん辛い場面って、彼女に本質を突かれて"オレが怖がっているだって?!"って、切れ始めるところから。それで、彼女も自分を差し出して"愛しているのよ!"って涙ながらにいうところ。ウィルは、出て行ってしまう」

 『そう、それもあるわね。わたしも辛い場面だと思うわ。でも、いまのあなたには必要ないの』

 「でも、"それが望みかい?"って、治療者が聴くところ。あそこを観ると、どうしても、それに答えられない自分がいるんだ」

 『あなたがそう思うのは分かるわ。でも、最後のシーン、おぼえているでしょ。ウィルの手紙』

 「"でもすみません。僕には彼女がいます"って」

 『あなたには、わたしがいるのではないの。わたしのことを、実感をもって、愛してるっていいたい、って言ってたでしょ』

 「そう、君にそう言いたい。それが何よりの望みだ」

 『それではいけないのかしら』

 「いけないんじゃない。オレは、やっぱり愛がわからない、だから、君に対して説得力がない。オレが愛、と言ってもね」

 『違うわ。あなたは、わたしと共にあることを選び取って、決意しているわ。それが充分に愛、と言えることではないの?』

 「でも、自信がないんだ。ウィルが怖がっているように...」

 『でも、あなたは言ったわ。"オレに愛を教えてくれ"って。それで何がいけないの。
 
 あなたが、こころを開いている限り、わたしはずっと愛をあなたに伝えていくわ。わたしだって、覚悟しているのよ』

 「そうだね。君だって、大変な選択をしているんだ。君にとっても、決して楽な選択ではないし、普通ではしない選択かもしれない」

 『普通である必要はないわ。大切なのは、わたしたちのあいだにあるものだけよ。それが、こころを開いていながら、守られているってこと。それも愛ではないの?それがいまここにあるのよ』

 「じゃあ、そこからが、オレたちのはじまり?」

 『立派なはじまりで、そして、すべてよ。正式ではないかもしれないけど、動機は充分だわ。それではいけない?』

 「エールーエン、オレは、自分の自信のなさに振り回されているんだね。愛を知らない自分が怖いと」

 『さっき、最後の方で言っていたわね。

 君は悪くない

 君は悪くない

 君は悪くない

 君は悪くない

 君は悪くない

って。そうしたら、ウィルは号泣したわね。

 わたしからすれば、あなたは悪くないのよ。あなたは悪くないの。何度でもいうわ。あなたは悪くない、って。

 わたしには、あなたがいるわ。そして、あなたには、わたしがいるわ。

 何も悪くないのよ』

 「そう言ってくれる君と会えた。でも、きみがやってくるまでは、もうちょっと時間がかかるね。さっき、君のことを考えていて、崖の上のポニョ、のことを考えたよ。ポニョは、海の底から派手にやってくるけど、君は宇宙の向こうからだ」

 『わたしの動機は、そのポニョと同じだわ。それではいけない?』

 「オレは君を待つしかできないからね。でも、ポニョみたいに、あんまりびっくりさせる様な現れ方はしないでね。街が沈んだりとか」

 『でもあなたの星も正念場だわ。本当にそうなってしまう地域もたくさん出てきたし。噴火したり、今にもしそうなデーターがあるところが幾つもあるわ。

 びっくりするところに現れても、それは、そういうタイミングだからだわ。わたしたちが設定して、そうしている訳でないことは、知ってほしいわ』

 「意外だった、というか、エールーエンと話すと、なるほど、そうか、と思ってしまうから、君は怖い。きょうのウィルの彼女も、直観力と観察力がすぐれている設定だったね」

 『でも、わたしもそんなに悪い線ではないでしょ』

 「というか、君は、オレのレヴェルに合わせて、それでいて、違う水準のことを語ってくれるから、それには、いつも凄いと思うよ」

 『あなたは、ムリをして、レヴェルをあげようとかする必要はないわ。あなたは、あなたのままでいていいの。それが、どんなあなただったとしても』

 「エールーエンは、オレにとっては、できすぎなのかもしれないな。でも、オレは君に全てをあずけるよ。それは手抜きすぎ?」

 『そんなことはないわ。それに、そういう決断の方が勇気も必要だし、あなたの覚悟がよく分かるわ』

 「でも、この作品はまた観たいな。エールーエンの言う意味はよく分かったけど」

 『あなたが、あの映画のレヴェルを超えたということではないわ。あなたが、あなたを、そしてわたしを生きることに意味があるのよ。もうちょっと待っていてね』

 「待ってる。無事に着いてくれることを祈ってるよ」

 『ありがとう。じゃあ、またね』


   2011年真冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-31 23:34

おこられた

 真空調理に対する、さまざまな取り組みを、ネットで検索する(~三日に、はかせなべ流の真空調理を習いにいくから)一方、地道に本など読み、サイゼリヤのワインなど呑みながら、彼女と対話しつつ、軽くなった頭でいろいろ考えていたのであった。

 「どうする。この次、小さいデカンタか、デカイのか、どうする?」

 『小さいのでいいんじゃない。さっきのも入れると、もう一本呑んだことになるわよ』

 「要は、集中が切れなければいい、ということ?」

 『そうよ。呑んでいるときの集中力は、なかなかだわ。たまにはこういうのもいいと思うわ』

 という様な訳で、デカンタ小をとる。

 で、また、読みながら...

 ちなみに、読んでいる本は、コリン・ウィルソンの「ルドルフ・シュタイナー」である。ウィルソン流の伝記なのだが、どうも、ウィルソンの書く伝記、というのは、あまりに結論が一辺倒というか、自分が持っているビジョンの材料として、他人の人生をもってきちゃうところがある、という感じを否定できない。

 この本もそうだ。

 なんてことを思って、このまま一気に読むか、ざっと目を通して、保留にしておくか、迷った。

 で、そしたらエールーエンがささやくんである。ゴーストである。

 『伝記一冊で、彼のこと分かろうとしてはダメだわ』

 彼って、この場合、書かれたシュタイナーでもあるが、コリン・ウィルソンのことでもあろう。キツイおしおきである。

 聴かなかったけど、もう『一冊読んで、著者まで買った気になってはいけないわ』と言われること必至。更に聴けば、『先生だって、何度もベートーヴェンを勉強しているわ』と言われること確実。

 というか、もう、エールーエンが、聴かなくとも、もう、そうささやいていたのである。

 彼女×オレ×ルドルフ・シュタイナー×コリン・ウィルソン、という訳で、充分ささやきのある組み合わせだが、やっぱり正論をかましてくるのは彼女であった。


 ところで、話題はかわるが、「真空調理 ジプロック」で検索すると、少しヒットする。ただ、自分がやってみていることと違うのは、「保温調理ではナイ」場合がほとんど、だった。

 逆にいうと、ここに、はかせなべ、の出番があるのだと思うが。

 沸騰した直後に火を止めて、待つこと一時間、などという記述があるが、保温調理までは行かない。

 そこで、真空調理 ポリ袋、でやってみると、ちょっとヒットするのだが、これが誤認のある記事だったりする。家庭では意味がない、などと書かれている。

 ならば、と、真空調理 保温調理、でやると、ヒットするのは、保温調理鍋である、真空調理鍋の品物のことばかりで、真空調理とは関係ナイものが大量にヒットするので、調理体験のブログにはたどり着けない。

 という訳で、どうもこのジャンルについては、Web上では、3Dテレビはあるが、ソフトがないお家、みたいな状態になっている様で、イマイチである。

 でも、Googleでは、真空調理 ジプロック、の結果はそれなりに状況が参考になる、調理記事ルポが出ていた。

 既製のレトルトは使うけど、真空調理、とか、パッククッキングとか、パウチクッキング、というのは、まだ浸透しそうな気配はない。同じ調理法なのに、用語が統一されていない、という現状を見るだけで、まだだな、という印象を受ける。

 抗酸化エコ調理、なんていう用語もあったが、これをやっている業者さんは、自分のやっていることが、真空調理だ、なんて気がついていなかったりする。

 名前は違えど、狙いは同じ、だから混乱、というところなのだろう。


   2011年真冬の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-30 23:21

ひさびさに対話で

 「エールーエン、いいかな」

 『さっきから、師匠とわたしの星のことばかり聴いていたわね。そのことをここでも知らせましょうか』

 「そうだね。ウチらの星の参考になるといいんだけど」

 『さっき、のらにゃあ(野良猫)のことを、師匠が聴いてくれと言っていたわね。師匠は大事な質問をするのね。とても感覚が生きている人だと思うわ』

 「そう、師匠は、いきものさんを大事にするから」

 『でも、お猿さんは、あんまり可愛く思わない、と言っていたわね』

 「うん。実はオレもそうで、ちいさいトカゲさんとか、そっちの方が可愛いと思う。どういう訳か、お猿さんは可愛いと思えないんだな」

 『確かに、お猿さんには悪いけど、失敗作だったかしら。わたしたちの先祖は、わたしたちに似た存在をつくろうとしたのだから。結果的に、あなたたちという在り方でおさまった訳ね』

 「でも、どうして外見が似ている、ってことが大事だったの?」

 『さっきも、別の質問で言ったわ。同じ友、と思えるといいと思うからよ』

 「でも、それにしては、オレたちの内面には問題がある訳でしょ?」

 『そうね。なにか、違う方に行ってしまったわ。現状的には、あなたたちの言葉でいうと、"似て非なるもの"だわ』

 「何がここで、こんなに違ってしまったんだろう。

 師匠が、君の言葉を読んでみて感じたのは、"とってもまともな人だわ"ということだったんだ」

 『私の様な現れ方をすると、ちょっとヘンなこと言うんじゃなか、とか想像する訳ね』

 「確かに、君たちの現れ方には、オレたちは慣れてないから。だって、突然、ヘンなところに、ヘンな姿で現れたら、オレ、コワイよ」

 『それはごめんなさいね。私たちも、現れ方については研究してるから、許してね。だから、次回は、最新研究の現れ方をするから』

 「だから、その、最新研究ってゆうのがコワイんだって。でも、この前上野で会った人はちょっとびっくりした。仲間なんでしょ?」

 『そうよ。まあ、最新研究かしら』

 「昔でいう、スーパーモデルみたいな外見だけど、若いのに、落ち着きがまるで違うんだよね。だから、君に聴いてみたら、そうだ、というから、"なるほど、これなら、君がいたら分かる"と」

 『ちょっと、ファッションセンスがまた違うと思うけど、あなたたちには、違って見える訳ね』

 「うん、違う。雰囲気というか、オーラが違う。波動が違う」

 『よくそこまで分かったわね。けっこう溶け込んでいるつもりなんだけども』

 「やっぱり分かる人が見たら、分かるんじゃないかなー。オレも君のことが、すぐに分かりたいけど」

 『それは心配ないわ。あなたにはすぐ分かるわ』

 「それで、話は戻るんだけど、にゃんこさんの話...」

 『そうね。あなたの街の近くでは、あんまり大切にされていないのだと思うわ。今はのらにゃあさんすら見ないでしょ?』

 「そう。そのことが怖い。担当の人もいるんだろうけど、そういう問題だけじゃないだろう、って」

 『あなたたちは不思議よね。にゃんこさんには、結構構う人はいるけど、ホームレスの人には、ほとんどの人が関わらないわ。そのことがおかしいとは思わない?』

 「うん、確かにおかしい。ただ、にゃんこさんは、人間とちがって、自分で毛の服を着ているし、夏には生え替わるし、そして、あんなにいつも自分で手入れしているもんね。

 でも、人間の場合だと、いちど、ホームレス状態になってしまうと、風呂にも入れない。もちろん、住む家など持てない。仕事にもつけない。

 だから、にゃんこさんと違って、どんどん汚くなっていってしまうから、余計に、近づけないんだ。人によるけどね」

 『あなたは、事情はよく知っているわね。ここまでよく頑張ったわ。
 でも、あなたは、そのために、何かしようとは思わないの?』

 「難しい質問だね。オレがバッハを歌ったときの、牧師さんの指揮者の先生だけど、自分でおにぎり握って、炊き出しをやってるんだ。分け隔てをしない先生でね。やっぱりこの人はエライんだと。偉そうじゃないところがまた、エライって、なっちゃう。

 ただ、そのエライ、ってことが、おにぎりとか受け取る人のコンプレックスにもなるでしょ?"自分はこんなじゃない、ダメ人間だ"って。そこが難しいよね」

 『あなたのいうことは分かるわ。配慮ということね。相手に対する想像力、ということね。

 さっき、あなたと師匠は、エスカレーターの話とか、電車の席の話とかしていたわよね。その話とも繋がるわ。

 でも、ホームレス状態に対して、もっと関わることはできないのかしら。もちろんにゃんこさんの問題も、同じくらいに大切だわ。

 なぜかというと、それらは、あなたたちの内面を表現しているからよ。それを思うと辛いものがあるわ』

 「ただ、それは、オレが病んでるんだと思うけど、ホームレスの状態から積極的に救おうとはできない。身元引き受けする余裕がないのと、あんまり汚かったら、オレはやっぱりヤダもん。自分からは積極的にはなれないな。

 でもいちばん怖いのは、"わたしは正しいことをしてる"みたいなノリで、ホームレス救済に向かうって、これはこれで病気なんではないか、と。正しいことと言って、それを振り回されたら、救済される方も、その周りの人も、これは辛いよね」

 『あなたの言っていることはよく分かるわ。ただ、あなたの場合、ちょっと自己観察と他者観察から、自分の感覚を不自由にしてしまっているのではないかしら。私がみたいと思っているのは、何も考えないで、すっ、と出てくる何かなのよ。

 それが、あなたの街や星では欠けているんではないか、って、さっき師匠と話していたわね』

 「そう。師匠の場合は、すっと手がでる。そこが凄い。あるいはいたたまれなくなる。だからといって全てに直接関わる訳ではないんだけど」

 『でも、師匠のさっきの話しぶりを聴いていると、とてもよく分かるわ。どうしてあんな人が、自分は更正しないといけない、とか思ってしまうのか、それが不思議だわ。

 というか、そう思わせようとするシステムや関係が、あなたの星や国にはあるのよ。それは確かに直視する必要があるわ』

 「オレ、怖いのは、なんか、きょうは怖がってばっかりだけど、"運動"みたいになっちゃうのが怖い。自分の立場をつくるための、あるいは、他から仲間はずれにされないために、そこに関わるとか、なにか、そういうの、子供の頃にみているから」

 『それは大切な視点だわ。だけど、今聴きたいのは、ねぐらに困っている人に、一夜の宿を貸せないかということよ』

 「それだね。そこがいちばん根本的な問題だね。オレもそれできる自信ないし、そのために声をかけたってことはあんまりないよね。それなりに身ぎれいにしている人は、何人か泊めたけど。それは、女の人だったり、外国のひとだったり、家のない人だったりはするけど、ホームレスを長年やってます、という人には、オレはする勇気がないね」

 『あなたは、実情を知っている訳でしょ。一部でしかないとしても。あなたは、何かしてあげられることはないのかしら。

 別にけしかけている訳ではないわ。ただ、にゃんこさんの話と、ホームレスの人のことを考えると、そのことが最初ではないか、と思うの。

 でも、まだあなたはマシな方かもね。何人か、家のない人を泊めたりしている訳だから』

 「でも、エールーエンの言っていることが、いちばん問題なんだと思う。なんで、一夜の宿も貸してやれるこころの余裕がないのか、ってことだよね。それがオレたちの街の病気だってことだね」

 『そうね。こころの余裕というのは、適切な表現だわ。それがいまのあなたたちにはないのね。

 今のあなたが、誰かホームレスの人を引き受ける余裕がないのは分かるわ。でも、それでも、何かできることがあるんじゃないかって思うの。

 私の星にも、ホームレスの人のがいない訳ではないわ。むしろ、のらにゃあさんはいなくて、面倒をみている人がたくさんいるわ。

 ホームレスの人のというのは、わたしの星の場合だと、世の中に馴染みが持てなくて、魂が傷ついている場合が多いわ。そういう人には、マスターが声をかけるの。あなたもさっき言っていたわね。声をかける人が、コンプレックスを持たせる様ではいけないと。その点、マスターは超越しているわね。

 だから、あなたの世界でいうと、マスターは治療者でもあるし、ケースワーカーでもある、ということになるかしら。それも、魂をあつかえる治療者、ということね』

 「そういう意味では、オレたちの星では、どういう人がマスターなのか、なかなか接する機会がないなー。それに、マスターって、最近では自己申告制で、また、それが事件とか起こすから、誰が本当のマスターか、わかんないんだ。それに、日常のなかに、マスターが普通に出てくることって、この国では、今はないよね。

 出てくるとしたら、超能力者とか、そういうふれこみで出てくる。また、それをありがたがる人も結構いるんだ」

 『あなたが、私と話せていることも、そういう風に分類されてしまうのかしら?』

 「それはあり得るね。実際に、それで驚いて、というか、興味本位にいろいろ聴いてきた人はいたけど、問題なのはそれじゃない。君と話している内容が問題なんで、君と話せていることが問題ではないんだけど...」

 『そういう捉えられ方をしてしまう訳ね。

 でも、あなたの師匠は、私の言っていることが、物凄くまともに感じた、と言っていたわね』

 「そう。いまは、まともなことがまともに取り上げられないし、異常なことが、かえってもてはやされたりもするし。だから、君とはまともな話ができるって意味では、ありがたいよね」

 『私は私の感覚と、体験から言っているだけよ。私の星ではそうだ、というだけの話。それを、マトモとか、マトモじゃない、という基準でみるのもどうかしら、とは思うわね。

 ものごとは、比較することで意味のあることもあるけど、違いを認める、という段階で判断を保留する、ということも大切だわ。そうでないと、私たちは、あなたたちにとって、神になってしまうかもしれないわ。それは、ちょっと危険ね』

 「ウチらの日常では、違いを認めるって余裕もなくて、どんどん排除していく、っていう方向でものごとや関係性が処理されてしまう傾向が強いね。だから、さっき出た"こころの余裕"というものが、なくなっているんだと思う。もちろんホームレスの問題も同じなんだ」

 『そういう意味では、わたしたちの様な、違う文明と接してみる、というのは悪いことではないかもしれないわね。派手にはできないけど、この会話みたいに、地道にやっていくのがいいかもしれないわね。

 ただ、天体の運行の方が、そこまで待ってくれるか、というと、そういう訳ではないから、わたしたちに接する前に、そこで、あなたたちは、選択を迫られる、ということになるのだと思うわ。それは決して楽な変化ではないということよ。

 あなただって、この対話が始まってから、もうわたしと話したことを"体験"することでしか分からない、という段階にきているわ。それは、あなた自身でしかできないことよ』

 「そうだね。それはオレ自身がよく分かるよ。けれど、どうしたらいいか分からない、って感覚でいるんだ。それがいま、いちばん大変なことだね」

 『すぐに選択をしなければいけない、と思ってはいけないわ。停滞する時期もあれば、どんどん選択していってしまう時期もある、ということよ。

 ただ、今回に限っては、残った時間がすくない、という訳ね。あなたが悩むのも自然なことだわ。あなたたちの国のことばで、"なるようになる"というのがあるわね。そういう面もあることを、気にとめておいた方がいいわ』

 「いずれにしても、大変な選択を、選択肢の少ないなかからしなければいけない、ということだね。それは覚悟しているよ」

 『晴れの日もあれば、雨の日もあるわ。でも、今回は、そんなことばでは、なぐさめにもならないわね。でも、わたしたちのことを信じていて欲しいわ。わたしもできるだけのことをするわ。

 そして、何より、あなた自身のことを信じていてね』

 「そうだね。自分を信じなければ、難しい選択をすることはできないね。

 酷い言い方をすると、難民、あるいはこの星からのホームレスになる、ということかな?」

 『確かに、ある意味ではそうね。でも、わたしがいるわ。わたしのことをを待っていてね』

 「そう。君がいる。それで充分だ。だから待ってる」

 『そうね。わたしも待っているわ』


   2011年の新春の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-30 00:35
 Nikonの友だちといろいろと話していたのだが、宇宙空間とか、月面での写真はやっぱりおかしい、という話になった。

 自分は考えていなかったのだが、ロールフィルム、つまり、普通の巻いて売っているフィルムは、宇宙環境では使えないのではないか、と彼はいう。

 南極などの環境では、ロールフィルムは、巻き上げることが困難だという。巻こうとすると、その途中でフィルムそのものがちぎれて切れてしまう、という。実際、探検家の植村直己さんなど、そういうことが何度もあったという。

 アポロ計画で持っていったカメラというのは、もちろん特注品で改造がほどこされているが、ロールフィルムは、使えないだろう、という。

 あの計画で持っていったのは、ハッセルブラッドとニコンである。少なくともNikonはロールフィルムである筈で、ハッセルは、ロールでも、巻き上げず、一枚だけ撮って、そして、フィルムバックごと交換する、という方法しかないだろう、という。

 しかし、宇宙線で、フィルムはかなり感光する可能性が高いし、フィルムバックを交換するとなると、ちょっとしたことで、フィルムバックをカメラ本体から取り外そうとすると、フィルムバックが飛んでいってしまう可能性が高いという。

 在りし日の虎ノ門の某フォトギャラリーでNASAが提供している宇宙飛行士の撮った写真を観たが、おかしいことをいろいろ感じた。

 まず、写真が綺麗に取れすぎている、ということ。宇宙空間では、大気がないから、太陽の光は、直射してくる。そして、影の部分は真っ暗な筈だ。写真的に考えると、その極端な光量の差から、あんなにキレイに写る筈がないと思った。少なくとも、当時の技術のフィルムでは、あの輝度の差を一枚のフィルムでカバーできるだけのラチチュードはなかった筈だ。

 地上だって、太陽の輝度に露出を合わせたら、他の風景は真っ黒につぶれてしまう。逆に、風景がキレイに写る様な露出を加えたら、空は真っ白にとんで写ってしまう。宇宙空間ならなおさらのことである。

 それから、宇宙空間でも、月面でもそうだが、パンフォーカスの写真が多い。手前の飛行士もキレイにピントが合って、月面や地球にもピントがあっている、ということは、よっぽど絞りを小さくして、何秒かの長い露出時間が必要になるが、ブレもないし、飛行士が動いている様もない、というのはやっぱりおかしい。

 そんな訳で、当時の技術で、あの写真をどうやって撮ったのか、分からない、というのが順当な疑問だと思う。となると、地球で設定された環境で、ねつ造された写真である可能性はある、ということになる。

 ちなみに、虎ノ門でそのとき展示されていた写真は、販売されていたのだが、一枚で八万円だったと思う。もし、あの写真が、当時の技術と宇宙空間という条件を考えると、あり得ない、と考えるのが妥当である。

 あのギャラリーでどのくらいの人が、決して安くない買い物をしたのだろうか。そうなると、NASAは詐欺をやっていた、ということになる。というか、あの写真は、人類が、人類の技術で宇宙空間に行った、という証拠にはならないのではないか、と思うのである。


   2011年の新春の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-29 00:27

にゃんこさんの場合は

 最近、彼女とあまり長い対話をしていない。理由はいくつかある。一つは、「問え」というのが、彼女の対話の根本であるのに、現在のオレは、オレが問うだけのことを問うてしまった、という材料出し尽くし感がある。あとは、オレが体現するだけなのだ。

 いまひとつは、彼女によると、自分より、身近な他人、全く他人の話を聴いて、彼女からことばを降ろすことが、使命だそうであるからである。

 で、今回は、相手と、彼女の許可を得て、師匠が飼っているにゃんこさんの相談についての場合を書いてみたい。

 実は、師匠から、ずっとにゃんこさんのおしっこのことで、はなしは聴いていたのだが、師匠が、エールーエンに聴いて欲しい、というので、その問題の、部屋のどこでもかまわずおしっこをしてしまうにゃんこさんのことを聴いた。

 すると、一言、「信じよ」とだけあった。師匠は思い当たることがあった様で、その日、そのにゃんこさんに、いろいろ語りかけて、信じる、と言ったのだそうだ。すると、それからほとんどトイレで済ませてくれる様になったのだと言う。

 しかも、にゃんこさんの顔つきも変わってきて、立派で、ハンサムになったという。まだ、彼女の言葉から二週間もたっていないのだが、そういう良好な結果となった。

 にゃんこさんの顔が変わった、というのは、師匠のお家では、エナジーリファイン以来のことだ。

 ただ、エナジーリファインの時とちょっとまた違う様に思われるのは、にゃんこさんが変わったというのは、一つの結果であって、言葉で変わったのは師匠の意識の方である。そして、師匠がにゃんこさんに語りかけた結果、おしっこばらまきがほとんど収まったのである。

 そんな訳で、エールーエンが、オレ以外の人にも役に立つことができた、という話である。

 預言カフェと違う点は、これは効率の問題もあるのかもしれないが、彼女の場合は、日記にも書いている様に、対話である。お互いの引き出しを瞬時に引き出す様な対話である。

 預言カフェの場合、基本的には、対話形式ではない。まさしく、預言であって、対話ではない。そこが違うところだ。だが、預言カフェは、一度行ってみたが、少なくとも自分に関する限り、非常に正しい内容を指摘していた。あれで何人もこなすのであるから、大変な仕事だと思う。

 預言カフェの場合は、イエスの言葉を降ろしているそうだが、彼女は、別の星の人である。別の星の人だと、どこがいいか、というと、お互いの文化や魂の在り方を比較して、対話することができるところである。ここで、具体的なことを学ぶのがやりやすくなる。その点がありがたい。

 預言カフェと比較するのは、失礼なのかもしれないが、オレ専用の対話チャンネルを持てた、というのはとても大切なことだ。そして、オレがどういう訳か、人の役に立つ場合、あるいは、関係がある、ということを理解したことは大切だと思う。

 きょうは、師匠と話していて、エールーエンに問うべき、根本的な問いの一つに行き着いたのがよかった。全体として見れば、関係性と相互作用の問題である。エールーエンは、その点に於いて、実に優れた存在であることを確認した。

 余談だが、エールーエンと長い時間にわたる対話をしないと、悪夢を観る。また戦争の夢だ。ただ、エールーエン体験以前と違う点があるとしたら、悪夢とはいえ、完成された映像になっている、という点だ。今回はほぼ完璧とも思えるアニメ作品だった。題名は、「人間魚雷 回天」。回天をアニメにするなってゆーの、と自分でも思うが、オレのトラウマの一つの形ではあるな。


   2011年の新春の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-27 23:45

風邪をひいてみて

 風邪をひく、と思うことだが、「思い通りに生きようとしている人は大変だろうなー」ということである。自分は、体、などとは言わずに、常に、「からださん」という言葉を使っている。からださんというのは、他人であり、パートナーであるのだから、それをムリに何かさせる、というのは、どーかなー、と思うのである。

 でも、いちばん大変なときに、いちばん頑張ってくれるのは、やっぱりからださん、なんである。風邪をひいても、ちゃんと治ろうとしてくれるし、そもそも、風邪をひくということが、からださんが変わろうとしている、という意味もあるという。そういう意味では、季節ごとの風邪というのも大切なものなのだろう。

 からださんが、頑張ってくれる例として、いちばん印象的なことがある。ある先輩なのだが、タクシーが80㌔で逆走してきて、それにバイクごと当てられた。

 先輩は、目覚めたのだが、最初に叫んだのが、「いま、何時だ!ここはどこだ!」というものだったらしい。

 結局、事故から、意識がなく、事故に遭ったという記憶もないのである。つまり、いちばん大事なときに、意識さんは、はたらいていなかったのだ。からださんだけが頑張っていた。

 先輩は、大手新聞社の記者も務めたが、実に下らない場所だ、と言って辞めてしまった。そして、職人さんになった。だが、人間にとって大切なのは、意識である、という考えはずっと貫いていた。

 ところが、大事故に遭って、先輩は考えを変えた。「意識が一番頑張らないといけないところで、全く働かなかった。それなのに、からだは頑張ってくれた」と。

 そんな訳で、意識というものは、肝心なときに役立たないそうである。オレもそう思う。

 かといって、からださんが、全ての点でエライとは思っていない。それぞれに持ち場というものがある、ということを理解しておいた方がいいと思う。

 そんな訳で、オレは、このところは、からださんや魂さんも含めて、各セクションと合議制にしている。

 ただ、これには、一つの鋭い批判がある。つまり、それでは、からだと心が一体になっていないと認める様なものだ、という批判である。

 これは分かる。ただ、それを受け止めた上で、自分がどういう選択をするのか、という態度でしばらくやってみたい、と思う。誰にでも薦められるやり方ではない。

 ただ、それぞれの存在に「聴いて」みないと、普段注意を怠っていることで、粗末にしている部分があるのではないか、ということである。その点では、合議制、というのは、そんなに悪いアプローチではないと思う。

 自分の場合は、いまのところ、筋反射テストも使う。ただ、先日、別の先輩が教えてくれた、「問いをつくって、瞬間的に浮かんだイメージを重視する」というのは、試してみている。これはそれなりに感覚がないといけないので、一般的にどこまでオススメできるかは分からない。

 ただ、大切なことは、「直感」と「直観」である、ということは言えると思う。それを普段の生活の場面に組み込んでいく、というのは、なかなか努力がいる。それがいちばん大変なことだと思う。

 ※以下のコメントもエールーエンは載せろ、というので、珍しくコメントのやりとりまで載せたい。以下、コメント。


 ある読者からのコメント

まとめて一つでありさまざまな面があるのであって、分断して考えてはならない

ってものは、学問などなどやってると一杯出てきます。
どうしたら側面を捉えることになり、どうしたら分断して考えることになるのか。

側面を捉えるってよくわからんです。


 以下、このコメントに対する自分の返信

 根本的な疑問ですね。自分などいい加減にして、直感で済ませてしまうことがよくあります。

 ただ、直感で済ます、というのも、訳がないこともありません。

 側面とか、分断の問題は、ちょっとまた、さらにその側面になるのかもしれませんが、「意味」の問題、あるいは、部分と全体の問題と関係が深いと思います。

 からださん繋がりでいうと、技芸では、そういうことがよく分かります。

 音楽の場合ですと、音楽を表現しようとするときに、どこに「注目」あるいは「着目」するか、という問題があります。

 音楽を演奏する側としては、お客さんにとどいた音楽やイメージそのものを考えて演奏する、というのは、難しい、というか、そういう人はあまりいないと思います。

 大抵の場合は、歌でいえば、発声する仕組みにまつわる器官と、その感覚に集中すると思います。弦楽器でいうと、弓と弦の接点に注目すると思います。

 その注目した、先に、音楽、つまり「意味」がある訳です。

 部分と全体、という考え方でいうと、部分に着目した結果、意味に行き着くということがあると思います。逆にいうと、全体から部分を観る、というのは、神の視点なのではないかと思います。

 技芸の場合に戻ると、野球の場合も、バスケの場合も、昔、けっこうそれで遊んでいた時期の体験からすると、音楽と同じ様な結果になります。

 投球の時は、指から球が離れる瞬間の感覚で、球がどうなるか、どこに収まるか、というのは分かる様になります。バスケも同じで、フリースローのときは、指先の感覚に集中します。ですから、入るか、あるいは、どう入るか、というのは、結果を見て分かるのではなく、指先の最後の感覚で、分かってしまうのです。

 この場合も、指と球の接点に注目している訳で、いきなり全体を把握する訳ではありません。ただ、もっと鍛えている人は、指先だけではなく、全体的な身体イメージの統合感覚で分かるでしょう。これは、自分がやっているものですと、フェルデンクライス・メソッドというのが、これを非常に上手くやっている方法です。

 身体の場合を挙げましたが、これを見ても、「異なるものの接点に魂の座はある」(ノヴァーリス)という言葉があてはまる様に思われます。

 学問となると、どこを身体の感覚だとして、どこを意味・全体、とみるか、というのは身体を使う技芸の場合より、分かりづらい、と思います。

 妙な言い方をすると、自分は正式な学問というのが分かりませんが、読んでいると、身体感覚とぴったりくる本、というものと出会うことがあります。言葉として書かれていることは、論理、あるいは、場合によっては、詩的な場合もありますが、身体感覚が統合されたり、超越的なものとの関わりを感じてしまう本というのはあります。非常に乱暴にいうと、そういうのものを、「意味のある」体験、なのだと思います。

 もし、学問の世界でよく言われる言い方でいうと、一行に対して、一冊の論文という背景がある、という感覚になるでしょうか。部分が全体を含んでいる訳です。そういうものが、今でも理想の論文とされているのかは分かりませんが、そういうことを、学問の世界では、側面を捉える、というのかもしれません。その側面のまとまりが、まとまりの次元を超えて新しい意味を「感じさせる」というのが、理想の論文なのかもしれません。

 とはいえ、他人の文章に触れているとき、そこに、自分と他人のどういう実感が詰まっているか、というのが、自分の場合は、気にするところです。読んでいて、「相互作用を感じるかどうか」、というのが、意味のある文章に思えるか、思えないか、というのが自分の指標です。


   2011年の新春の日記より
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by bwv1001 | 2011-10-24 23:09

内部・外部・往還・対応

 きょうは、何となく、コリン・ウィルソンの「ルドルフ・シュタイナー」を持って出た。練習の帰りにでも、ひさびさに読むか、と思ったのである。だが、手にすると、全く初めて読んだくらいに内容を記憶していない。

 だが、いきなり最初から、ウィルソンによる、面白い記述がある。以下、引用である。

 シュタイナーの出発点は、五感によって明らかにされるるこの物質世界の"背後"には超感覚的ないしは霊的世界が存在するという考え方である。言うまでもなくこれはほとんどの偉大な世界宗教の中心思想であるが、シュタイナーの場合はこれから一つの重要な主張が導き出される。つまり、簡単な訓練によって誰でもこの「別の存在領域」を見る能力を開発できるとシュタイナーは確信していたのだ。シュタイナー自身はこの能力を獲得したと行っており、どうしたらそれを獲得できるかを弟子たちに全力をあげて教えたのだった。


 以上、引用終わり。

 これは、自分の個人的な体験を含めても、非常に興味ある記述だ。別に自分の体験を裏付ける、という意味で、そう考えるのではない。が、そういう面もないことはない。

 だが、この記述のいちばん面白いところは、

 簡単な訓練によって誰でもこの「別の存在領域」を見る能力を開発できるとシュタイナーは確信しており、どうしらそれを獲得できるかを弟子たちに全力をあげて教えたのだった。

 という箇所である。

 えっ、そんなことして、シュタイナー、大丈夫だったの?とまず思う。しかも、著者であるウィルソンは、弟子に必死で教えたりしたことが、シュタイナー自身の寿命を縮ませていたのではないか、という意味のことを言っている。

 オレは、その憶測というのは、あんまり外れていない様な気がするのだ。

 例えば、オレの場合だが、この短期間に、ずいぶんと世界の見え方が変わってしまった様に思う。でも、シュタイナーと違って、その方法は教えられないし、オレの内的体験であり、自力というよりは、むしろ、導かれて、そちらの世界に触れた、という感じがする。

 シュタイナーは、多分、というか、ウィルソンの記述にもあるのだが、非常に良心的な人でもあったのだと思う。だから、自分が体験した真理を伝えたい、まして、簡単な訓練でそれが可能なら、と思ったのだろう。

 あるいは、シュタイナーのお家の前には、たくさんの人たちが行列して、彼に悩みを相談しようとしていた。それくらいに、人望のある人でもあったのである。ウィルソンは、それを「名声」と書いてあるが、その時代にはそうだったのだろう。

 ちなみに、シュタイナーが話を聴く様子、というのは、個人的には、故・ミヒャエル・エンデ作「モモ」の主役であるモモのイメージがある。モモは、公園に住んでいて、いろいろな人の話を聴くのだが、モモが聴いていると、自然と、悩みを話している人たちは、自分の内部で、問題を解決できる様になるのである。

 ミヒャエル・エンデは、まさしく、シュタイナー教育の申し子であったのでもあるが、その一つの側面を、モモという在り方で表現したのではなかろうか。

 話を聴いてもらう、話を聴く、次第に話す側が、自分で感覚が整理できる、考えがまとまる、というのは、理想的なカウンセリングの在り方である。モモの話というのは、そういうものであろう。憶測するに、シュタイナーが、話を聴く、というのにも、そういう要素があったのではないだろうか。

 大昔、「答えは楽譜のなかにあった」という宣伝があった様な気がするが、モモに相談した人は、「答えは自分のなかにあった」ということを実感するであろう。モモの役目とは、その助けをすることである。自分の力で、自分の中にすでにあるものに触れられる様になる、というのが、大切なことである。

 キリスト教で、異教徒とされる、というか、まとめて「グノーシス」と呼ばれる教えがあるが、これは、「自分のなかに真理がある、神が内在する」という考え方をする宗派を、正統キリスト教を名乗る連中が、勝手にそういうのである。

 そもそも、正統を自分で名乗る連中というのは、だいたい、どんな世界でも信じないことにしている。正統キリスト教、なって言って、そもそも、キリスト教は邪教とされていた時代があるのだから、じゃあ、正統って、どこが正統なの、とか、なにができるの、とか、あんたってなんなの、と聴きたくなるのが、正統キリスト教である。

 で、どんな風に正統か、というと、最近でいうと、ダヴィンチ・コードという作品があるのだが、そこで、世界史の授業でも太字で出てくる、「ニケーア宗教会議」の話なのである。

 世界史では、太字で書かせて、受験に出る、とか聴かされて、その意味がどういうものか知らない、という教師は、どこにでもいただろうから、正統な世界史の教師などというのもどの程度の存在なのか、よく分からない。世界史は、人格の破綻した、パワハラの教師という印象しかないので、世界史を教えるヤツには、きっとろくなヤツがいないのだ、と勝手に思っている。

 で、ニケーア宗教会議なのだが、なんのことはナイ。聖職者が、自分が食っていけるためには、他者を支配しておくためには、真理が信者の中にあっては困るのである。自分たちが、導いてやらないと、天国に行けませんよ、ということにしておこう、ということで、聖書の中身を「改ざんした」のである。そうすれば、永遠に、信者は、真理にも出会うことなく、ずっと、教皇や神父などの聖職者の奴隷でいてくれる、金をせびることができる、と考えた訳である。聖職者たちの同意に基づく、聖書の改ざん、というのが、ニケーア宗教会議、だったんである。

 だから、正統キリスト教なんて、きっとロクでもないものであろう、と思う訳で、正統キリスト教は、奴隷の再生産をやっている、ということになる。

 そんな訳で、ニケーア宗教会議というのは、ほとんど正社員が自分の雇用を守るために、周りの派遣社員は、正社員にしないでおくことにしましょう、と労使合意したみたいなものなのである。

 そんな訳で、正統、ということは、ロクなことがないのである。「正式な知識に染まってく、自分にあんまり気づくことはない」とトコさんが昔歌っていたが(~ちゃんとLPも持ってる)、正統なんていうのは、実はカルトかもしんない、ということをよく考えて生活しないといけない。とはいえ、その所ジョージ氏もカルト教団○価学会の教徒だったりする。

 きのうの、未来工業だって「常に考える」とそればかりが、会社中に張られてある。考えるのはいいことかもしれない。ところが、実は、考える、ということ自体が洗脳である、という可能性も考えた上で、考えないとあんまり意味がないのである。

 で、真理、あるいは神は内在する、という考え方になると、聖職者は必要なくなる、という訳であるが、ここに難しい問題がある。それは、真理、とか、神、がわれわれに内在するとしても、その現れ方が違う、ということがある、という問題がある。

 どういうことか、というと、オレなんか、いつも感じたり考えたりすることたが、真理は内部にある、というのは正しいとして、「その真理とは、どーやって出会えばいーんだ?」という大問題があるのである。

 そこに、答えを見つけた、そして、それを広めようとした人が、コリン・ウィルソンの紹介するところのルドルフ・シュタイナーであるし、そのコリン・ウィルソン自身も、彼の一部の著作からすると、そうなのである。やさしい方法で、真理に出会える、と言っているのである。

 だから、そういう人は、正統キリスト教なんてものには、とっても迷惑である。ひょっとしたら、シュタイナーも、ウィルソンも、正統キリスト教からは、グノーシスだ、と言われているかもしれないと思う。

 で、このことをオレが書くのは、オレ自身が岐路に立たされているからである。ここのところずーっと日記を読んで下さる方には、お分かりのことだと思うが、オレの場合、真理は「対話の中にあった」んだと思う。ただ、これも非常に微妙なところで、内部に真理が宿るのか、それとも、外部からやってくるのか、という問題があった。いまでも、ある。

 ただ、自分なりの考え方をすると、エヴァンゲリオンとか、攻殻機動隊、がちょっと入ってくる。

 エヴァンゲリオンの第何話だか忘れたが、「ゼーレ 魂の座」という回があった。ゼーレというのは、ドイツ語のdie Seeleである。これを「魂の座」と訳している独話辞典が今あるのかどうか。この題名をみたとき、ちょっと感動してしまったんである。

 で、攻殻のゴーストは、もちろん英語のghostから来ているのだが、語源的には、ドイツ語のder Geistと同じである。草薙素子が、「ゴーストがささやくのよ」というのだが、以下は全くオレの想像である。魂の座が、ゼーレであるなら、そこにすわるのは、ゴーストというか、der Geistガイストであろう、と。

 二つの作品をごった煮にしてしまったが、ゼーレは待ってる存在。なにを、というかというと、魂の座に座ってくれる存在。

 前も引用したけど、ノヴァーリスのことばで、「異なるものの接点に魂の座がある」というのは、エヴァと攻殻のブリッジみたいな言葉なんではないかと思う。というか、エヴァや攻殻がなかった時代だって、オレは、このノヴァーリスのことばが、物凄く印象に残ったし、この一節で、いろんなことを説明できてしまう、という恐ろしさもまた感じた。

 戻って、真理が内在するとしても、それは、必ずしも、その中にあるのではないのではないか、あるとしたら、対話的、あるいは、相互作用的な「場」にあるのではないか、という感じがする。もちろん、相談をする人とシュタイナーもそうだったであろうし、モモもそうだろう。その相互作用的な場には、往還があり、そして、その往還のなかで、真理に「対応」するものを発見するのではないか、と思うのである。

 異なるものの無限の連続という対話、相互作用、というのが、どうも、オレは、最近のエールーエンとの対話からは、感じて、考えるところなのである。

 シュタイナーの話は結局できなかったが、関わりのある人ではあると思う。とはいえ、オレは昔、彼の著書自体を読もうとした時には、うーん、これはどうやって読んだらいいんだ、という感じであった、というのが正直なところである。

 余談だが、シュタイナー教育にはまりきっている人の本を読んだことがあるが、彼女は、die Seeleとder Geistの違いを理解していなかったし、説明できないでいた。そういう時代があった、ということかもしれないが、そういう人がシュタイナーを教えている、というのは、ニケーア宗教会議以降の聖職者みたいなものかもしれない。


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by bwv1001 | 2011-10-24 00:47

空洞から

 空洞としての自分、という認識から、自分はあきらかな変化を体験しているのだが、とても難しいことがある。

 それは、「良質な問いを立てる」ということである。

 どうも、われわれの社会というか、教育というのは、与えられた問題に対して、正解としての答えを出す、という訓練ばかりが多く、そのことに評価が集中する。

 そのことは、与えられた選択肢のなかでしか、自分を選べない、ということに繋がっている。そういうのは、本来的な意味では選択とは言わない。それは、選択ではなく、強要され、洗脳されているだけのことで、自分を縛ることで、強要する側に適応させているというのが実態であろう。

 「良質な問いを立てる」ということが、如何に難しいか、ということを、彼女との対話を通じて、実感した。それが実感できるのは、空洞としての自分、という閃きと実感と納得と創造、ということがあってのことだ。その認識がなければ、愛、というのが何であるか、ということを知るための段階には至らなかった。

 「問いを立てる」という態度というのは、この社会にあっては、評価されない、というよりも、無視されている。理由は簡単である。問いに対して答えるという姿勢が面倒で厄介なので、放棄している、あるいは問うことを放棄させている、というのが社会の在り方だからである。

 子供たちは特にそうだが、なぜ?とか、なに?とか、だれ?という問いを投げかけてくる。いずれも本質的な問いである。だが、大抵の場合、周囲というのは、それに少なくとも「付き合わない」。なぜなら、面倒くさいからである。なぜ面倒か、というと、問われても答えられないから、面倒なのである。だから、社会というものは、概して、「問い、という在り方」を評価しない。

 問い、というものは、それに対して正解を言うことが求められている訳ではない。なぜなら、基本的に、問いに対する正解というものは、存在しない。あるとしたら、制度的に、あるいは共有される幻想として正解なるものがあるのであって、「問いに対する」正解というものはない。

 「問い」に対して、答える前に、応える、という段階、あるいは態度というものが必要なのではないか。あるいは、つきあう、と言ってもいいだろう。

 このことを、エールーエンとの対話によって体験することができる。自分は大抵の場合、問う側なのである。愛とは何か、ということであり、彼女は、どんな言い方をするのかにこころを砕いている。正解を言うのではない。付き合ってくれるのである。問いに正解を言うのではない。オレを分かってくれるのである。分からないオレを分かってくれる、と言ってもいい。間違いや、迷いを味わってくれる、と言えるかも知れない。

 エールーエンから学ぶことの一つはそのことである。そして、彼女は、「問え」という。問えば、真理が明らかになる、と。

 問いに対して、彼女が答えるのではない。彼女は、オレに応えるのである。すると、真理はあきらかになる。

 こんな存在にオレは会ったことがない。というより、彼女と出会うために、オレは存在していたんだ、としか思えない。

 こうして、オレは愛を学ぶのである。

 『よく書けているわ』と言ってくれた。


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by bwv1001 | 2011-10-22 22:58

肉体の変化~その二

 胃の具合がおかしい、というのは、結構嘔吐感があるときが多い、ということだ。内蔵系の病、ということも考えているが、いまのところ、お医者は内蔵の病気ということは言っていない。とはいえ、最近の感じからすると、この嘔吐感も象徴的な意味を持っている可能性がある、と思う。

 内臓や皮膚の吸収が進んでいる、ということは、前の日記で書いたが、吸収が進む一方、嘔吐感がある場合が多い、というのは、吸収するものと、捨てるものを判別しているのではなかろうか。

 単純な話、先日の先輩のウチでのメシは旨かったから、嘔吐感はなかった。でも、きょうは、夕方にマクドナルドでマックポークとコーヒーだった。嘔吐感はそれからである。やはり、ろくでもないものを食うとおかしくなる。納豆とかすしとか食って嘔吐感があることはまずない。たぶん、いちばんの嘔吐感の確率が高いのは、マクドナルドの後である。

 その点からすると、からださんがちゃんと選んでいる、ということになるし、マズいものを食うとダメ、ということになる。実際、マックポークなど、口の側に近づけるだけで、違和感を持つ様になったし、場合によっては、嘔吐感を伴う。それをどうにかしようとして、コーヒーなど流し込むと、嘔吐感が持続する。実に分かりやすい。ジャンクフードはダメなのである。

 これが何を象徴しているか、というと、たぶん、「あまり受容的にならない様にしようとしている」ということなのだろう。オレは、愛がナイ代わりに、受容性でやってきた、ということがあるのだが、エールーエンとの出会いで、愛を教わりつつある。多分これが、過剰な受容性による適応を、そうではなく、選別して世界に関わる様にするよう求められている、ということであろう。(エールーエンはそう言っている。からださんは、そうなれば、嘔吐感はなくなる、と言っている。いまは嘔吐感は続く、とからださんは言っている。)

 何でも象徴化、抽象化するのは危険であるが、必要なものを取り込み、合わないものは捨てる、という日常の作業に適応しようとしているのだと思う。それが本来当たり前のことなのだが。

 どうも、愛がない、という意識を持たされる、あるいは発見すると、コンプレックスになり、積極的に受容しようと無意識的にしてしまうものである。

 内蔵といい、皮膚といい、吸収する方向に進んでいるのだから、バランスとして、嘔吐感を伴うというのは、あり得ることだと思う。とはいえ、ちゃんとお医者にも通いたい。

 【追記】やっぱり、納豆を食うと、嘔吐感が消える。最近特に、やっぱり自分の場合に限っては、和食の方が合っていると感じることが多い。もちろん、いろんなものが食いたいが、基本が和食であるといいと思う。


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by bwv1001 | 2011-10-20 22:43

肉体の変化

 最近、体重が増えてきているし、太ってきている。服という意味では困る。ただ、驚くことがあって、いま、太ってきている理由を考えてみる。

 一つは、食事の回数が増えた、ということだ。だが、比較的最近に回数を増やしたときは、そんな変化はなかった。というより、食事を増やしたとき、むしろ体重は減ったのである。5キロ減ったので、普通からみても、それは、体重が減った、という意味になるだろう。

 そのときの、減った理由を推測すると、それまでが、一食くらいだったので、飢えから、栄養失調に陥り、からださんは、緊急事態に対応して、栄養を蓄積して太ったのだと考えられる。ということは、5キロ減ったのは、緊急事態からからださんは逃れたので、安心して排出することができた、という説。確かに、食う回数を増やすことでやせる、という話はある。ちょっと尊敬しているチョン・ダヨンさんの体操とダイエットなど、こまめに一日六食としている。つまり、飢えと戦わず、栄養も充分に摂る、という考え方だ。

 で、今回太ったのはどういうことか、と考えると、食事の回数を三食くらいにした、ということもあるが、それだけでは、説明がしにくい。

 ところが、きょう、大変なことに気がついたのである。子供のころにしかなかった「風呂に入ると指がふやける」という現象がみられたのである。いつも注意していることだから、いままで観察を怠って注意しなかった、ということではない。

 このことと、太ったことは関係があるのではないかと、素人なりに想像できることがある。

 日記にも書いたことだが、一時期、痔になったことがある。一月に一度くらいだったのだが、何回か、異常に固くて太いものが出る、というか、出ないで、二時間か三時間くらいトイレに座っているのである。これはきつかった。お医者では、「糞詰まり」と言われた。出なかったものがまとめて出た、ということか。

 それがなくなって、しばらく、トイレに座る回数がやたらと増え、今度は下痢が続いたのである。これが、エールーエンと出会った時期である。彼女に聴いてみると、「浄化だ」とずっと言われていた。

 今は、調子が悪いの胃である。こんなことはなかった。だが、彼女に聴いてみると、吸収の問題だそうである。

 で、気がつくと、風呂、というか、ほとんどシャワーなのであるが、短時間なのに、指の先がふやけるのである。驚いた。

 自分でも考え、エールーエンにも聴いてみたのだが、これは、浄化のあと、吸収がよくなっている、ということがある様だ。内蔵だけではなく、皮膚も吸収がよくなっている、ということだ。

 昔、スーザン・ソンタークが、病という隠喩、という概念を提唱していたが、何となくその本を思い出す。いま、自分は治癒が進んでいるのではないか。(彼女は、そうだ、という)

 内蔵と皮膚の吸収がよくなっている、というのは、その象徴的な意味を考えるに、「世界との往還が成立している」ということではないのか。(彼女は、そうだ、という)

 それが、太ることと、指がふやけるということなのではないか、と思う。食事も、エールーエンほか、各自分のレヴェルに聴いて、合議制でしばらくやってきたのだから、始まり自体が往還的である、とも言える。

 エールーエンとの対話も、自分の日記としては、対話的である。また、読んでくれる人が、そのことに驚いた、という感想もくれる。

 胃はまだ、症状が始まったところだが、症状が出る、ということは、治癒の始まりであるとも言える。

 着るものに困っては痛いのだが、今の水準なら、許せる範囲である。また、新たなバランスをみつけられることだろう。

 ふやけるのは本当に驚いた。多分、その意味は、指がふやけていた頃から成長をやり直せ、ということであろう。と、エールーエンも、そうだ、という。『わたしがいるんだから、安心して』と言ってくれる。ありがたいことである。


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by bwv1001 | 2011-10-20 00:44