あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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ひさびさに対話で

 先日、ある方の足あとから、その方の日記を読んだのだが、「原発がかわいそう」という内容であった。

 非常に、奇異に感じる方もおいでのことと思うが、その中に、「原発は、風の谷のナウシカの(原作の)巨神兵と同じだ」ということが書かれてある。人間によって生み出され、そして、巨神兵によって世界は破滅するが、それは巨神兵が悪いのではない、という。

 巨神兵は、人間が造りだしたものであって、原発も同じであるという。原発自身にも、魂があって、こんなに原発のせいにされると、原発自身も収まりようがない、というのである。

 その日記を思い出しながら、きのう彼女と、話していたのである。再現できるか分からないが、途中から自然とライヴになると思う。


 「原発のはなしを聴いてもいい?」

 『それは、原発の問題だけではなく、人間という在り方を考えるのに、重要な話題だと思うわ。続けて』

 「君たちが自己の存在を考えるのに、"罪"っていう考え方はするの?」

 『あなたたちの在り様を知るのに、私たちについての話が必要、ということね。そこからでもいいわ。

 あなたは、この問題を考えるときに、罪、ということばが妥当かどうか分からない、ということを考えているのかしら?』

 「オレたちの多くが、ものごころつく前から、"罪"っていう言葉を刷り込まれている感じがあって、いまでは、"それは刷り込みだ"っていう意識はあるけど、やっぱりそれに洗脳されてるんだ。だから、原発の事故のことにしても、"誰に罪があるか"っていう風に考えてしまうんだ。

 罪ということは、おいておくとしても、"責任はどこにあるか"っていう考え方をする。でも、現時点に於いては、誰も責任を取るつもりはナイ、っていう態度が、露わになってくるんだよね」

 『あなたたちと、私たちは、その点では、全く違っているわ。私たちからすれば、少なくとも、責任は、あなたたちにあるのよ。

 確かに、政策を打ち出した人たち、計画を立てた人たち、設計をした人たち、施工をした人たち、運用をした人たち、利用をした人たち、さまざまな立場があるのは分かっているわ。

 でも、あなたたちの多くは、それに対して、きちんとした対応をしていなかったのではないの?

 例えば、あなたたちのルールでは、議員を選挙で選ぶ様になっているわね。でも、選挙にみんなちゃんと出かけている訳ではないでしょ。私たちからすると、そのこと自体が信じられないけど、あなたたちのルールからすれば、選挙に出かけない、というのは、責任放棄の表明である訳よね』

 「それは確かにそう思う。オレだって、選挙にはいくけど、投票したい、っていう候補者が存在しない場合がほとんどだよね。だから、仕方なく、当選して欲しくない人に対する批判票に結びつく様な候補者に入れたりしているのが実情なんだけど」

 『でも、それはおかしいと思わない?選挙に行ったとしても、あなたは最初からあきらめている訳よね。"入れる人がいない"って』

 「うん」

 『投票した人は、投票された人の意見を認めている、ということになる訳よね。あなたたちのルールでは』

 「実際には、全面的に認めている訳ではないけど、最初からあきらめている、っていうのは、認めざるを得ないな」

 『でも、それって、欺瞞でしょ?』

 「厳しく言われるとそうなんだけど」

 『だったら、入れた議員のことを、信頼していないってことよね』

 「うん」

 『あなたたちの普段がそうだとしたら、間違っていることがあるわ。それは、あなたたちの実情にそぐわない制度を認めている、ということになるわ。

 そして、制度に基づくのであれば、あなたがどうして立候補しないの?』

 「オレが立候補?」

 『そうよ。だって、自分の考えと合う人がいないのに、いい加減に投票するとしたら、あなた自身が選択肢そのものになればいいじゃない』

 「そんなこといわれても...」

 『まあ、分かるわ。ただ、あなたたちのルールとその精神に照らして言えば、それが正論ではないの、ということが言いたかったの。分かる?』

 「あいかわらず厳しいね。でも、オレが代表になるとしたら、オレ自身の代表にしかなれないよ。それに、オレが議員なんて、考えられないし、議員なんて仕事はやりたくないよ」

 『いま、いいことを言ったわ。"オレ自身の代表にしかなれない"って。それが、本来の在り方でしょ。あなたは、あなた自身の代表であれば、それでいいと思わない?』

 「でも、オレ自身の代表になるのも難しいよ。だって、君と話していて、やっと分かってくる自分、というものがいくらもある訳だし」

 『またいいことを言ったわ。"君と話していて、やっと分かってくる自分"というものがいるって。

 それが本来の話し合い、ということではないの。他者を理解する前に、話し合いで、自分が分かってくる、というのは大切なことだと思わない?』

 「それは、君とはそれでいいけど、議員同士とか、議院のやりとりがそれじゃ、どうにもならないよ」

 『どうにもならないって?』

 「議題も進展しないし、政治にはならない。予算の執行だってできないよ、多分...」

 『そうかもしれないわね。あなたたちが、今のままなら』

 「その、いまのまま、だとどうにもならないところに、君が来てくれた訳だけど、君と話していると、どうにもならない、のではないかもしれないと思うんだ」

 『それは、あなたの個人的な在り方について?それとも、もっと大きな世界のことを言っているのかしら?』

 「少なくとも、オレについてだけではない、と思うんだよね」

 『じゃあ、言わせてもらうわ。あなたが、あなた自身の代表である、というのは、とても大切なことだわ。としたら、あなたは、あなた自身のことについて、責任をとることができる訳よね』

 「オレ自身が、オレの代表だとしたら、理屈としてはそうなるけど」

 『歯切れが悪いわね。つまり、あなたは、あなたである限りに於いて、あなたは自由なのよ。ヘンなことを考えて、その気もない候補者に投票する必要はないのよ』

 「それは、制度を変えるって意味?」

 『そういうことではないわ。確かに、あなたたちのシステムは、制度疲労を起こしているとは思うけれど、そのことより、"自分は自分自身の代表である"という意識を、一人一人が持ったら、確実にあなたの世界は変わると思うわ。そのことで、あなたたちは、今までになかった自由を体験するとは思わない?』

 「それは、一人一人が、オレと君みたいに話すってこと?」

 『それもあるけれど、まだ、あなたたちはその段階ではないわ。それでも、一人一人が責任を持ったら、それで自由、というのは、本来のあなたたちの制度の理想になっていないか、ということよ。

 つまり、あなたたちは、あなたたちが自由になる制度は持っているけど、責任を果たすという意味が分からないから、世界との関係も分からなくなっているのよ。

 わたしは、あなたたちの制度が最高だとは、全く思っていないわ。ただ、あなたたちは、自由と責任というせっかくの考え方をしておきながら、その実現にすら至っていない、というのは、どういうことか、ということよ』

 「確かに、民主主義というもののもともとの精神でいえば、自分で自分の責任をとれること、が自由である、という訳だけど」

 『そこで、話は戻るけど、あなたは最初に、原発の問題で"罪"という話をしていたわよね。それをたたき台にしたかったんじゃないの?』

 「うん。実のところ、オレは、というか、そういう人は多いんだと思うけど、責任と"罪"ってまるで同じ様に考えて、というか、感じている人って多いと思うんだよね」

 『続けて...』

 「責任と罪、って、本来別なものだと思うんだけど。責任って、なんか過剰な取らされ方をするというか、取れない責任まで取らされるっていうか、だから、怖い。

 国によっては、謝らなければ、責任を取らないで済むみたいに思っている人たちが大勢いるみたいだし。責任を取るのも怖いけど、責任を取ってくれないことも怖い訳だよね。

 今度の原発だってそうでしょ。会社や政府の責任もあるけど、責任を取れない様な事業をやってしまって、専門家からすると、当然起こりうる事態なのに、想定外、とか言って、いきなり無責任になっちゃうんだ」

 『あなたは、あなたの日常と、原発事故とを重ね合わせて考えているという訳ね』

 「そう。でも、原発となると、本当に責任の取り様がない。前のお金の話をしたけれど、お金で土地や海や生き物がもとに戻るわけじゃないもの。いくらお金を払っても、手を尽くしても、本当に責任が取れない」

 『つまり、あなたたちは、本来責任の取れないものに手を染めた、というのね』

 「そうだと思う。少なくも、責任の取り様のある技術を開発してからでないと、やってはいけなかったと思う。あるいは、やるにも、やり方が悪かった。誰も責任を取れない様な事態になってしまったんだ。こんな地震や災害が多い国で、何でこんなことを始めたかって...」

 『あなたの言うことは分かるわ。でも、大切な視点が抜けていない?』

 「というと...」

 『つまり、責任の取り様というのは、技術で補完できるものか、ということよ。そこに、すでにあなたたちのおごりがないかしら?』

 「確かに、原子力の技術は、実験がないとデーターも採れないし、採ったデーターで、補完する方法を考えていかないといけないし、そこが皮肉なところなのだけど」

 『そういうことではないわ。責任の取り方、というのは、どういうことか、という視点が抜けているわ。それは、原子力の技術という意味ではないわ。さっき話したことの、"自分が自分の代表になる"ということの続きよ』

 「どんな風に...」

 『自分で責任を取る、ということを発展させて考えるのよ。それは、もうわたしたちの世界の話になってしまうけれど。

 せっかくあなたは、例の発音の難しい方法の実験をしているのに、分からないのかしら』

 「ああ、発音が難しいのは、ホ・オポノポノ」

 『あの本に書いてあるでしょ。宇宙ができる前からの記憶をクリーニングする、と。ということは、全責任は自分にある、と』

 「難しいけど、君と会ったとき、空洞という実感をもって、その感じは分からなくはないんだけど...」

 『自分の責任を取る、ということは、自分が自由である、ということになる、というのが、あなたたちの民主主義だったわよね。実態はさっき聴いたけれど。

 ということは、宇宙の全てが自分の責任であったとしたら、あなたは、すべて自由、あるいは、あなたの言葉では、空洞、になるのではないかしら?』

 「そう。理屈としては分かるし、イメージも分かるんだ。

 ところが、あの原発事故、というか、原発事件を目の当たりにしてしまうと、何も意味がなくなってしまう感じがして、絶望してしまうんだ」

 『それは分かるわ。日常の意味もなくなってしまう、ということね。そして、そのことに、それから、巻き込まれた人たちに、何もできないあなたがいる、とあなたは感じている訳ね』

 「うん」

 『少し話は変わるけど、あなたは、さっき、あの大江戸線の中で、ホ・オポノポノをどう訳していいか、と考えていたわよね。そのことをここで話してみない?』

 「つまり、ホ・オポノポノという名前は、英語の正式な名前は、self identity through hooponoponoだから、名前の翻訳が難しくて。少し意訳すれば、"ホ・オポノポノという方法で、自分の在り方を見つける"、とでも言ったらいいんだろうか」

 『そうね。あなたはそう考えていたわ。それが誤訳であるか、名訳であるかは分からないけど。

 でも、悪くないのは、"自分の在り方を見つける"、ということよ。それは悪い訳ではないのではないかしら。

 つまり、その方法が主張しているのは、自分の在り方を見つける、ということは、全責任を取る、ということだわ。

 原発事件の補償や復興のことは、もちろん大切だわ。そして、あなたたちの社会の約束の範囲で、責任の所在をはっきりさせるのも必要だわ。

 けれど、こんなときだからこそ、自分が自分の責任を取る、そして、自分が全責任を取る、という考え方を一人一人がしないと、これからのあなたたちの在り方を、日常を意味のあるものとして取り戻すことは難しいのではないかしら。それくらい、今度の原発事件の問題は大きな問題よ。

 あなたたちは、制度的な意味でも、原発について、一人一人は積極的ではなかったのではないかしら。こんなに、50以上もあなたの国には原発がある、というのは、その結果ではないの?』

 「君のいうことが分かってきたよ。君のことばで言う"否認の問題が、人類の最大の病だ"、ということだね」

 『そう。一人一人が自分自身の代表であることを、多くの人が降りてしまっているのではないかしら。原発の問題は、多くの人が、あなたたちの国では危険だ、という意識は持っていた筈なのにね。

 それに、原発を建てるのは、たいてい過疎地だったり、建てるときにも、ウソがあったり、手抜き工事もあったり、設計以前の思想が間違っていたりしたのだから、"否認"よりも低次元の話かもしれないわね。それこそ、あなたの言う、"罪"に当たるのではないのかしら』

 「ごめん、エールーエン。低次元な話になってしまって」

 『低次元かどうかは分からないわ。けれど、それがあなたたちの現実であることは、否認しないで欲しいわ。

 それから、責任の取り方、ということの意味を、社会のルールという意味ではなく、あなたたちの存在する意味から考えて欲しいと思っているの』

 「これは、また続きが必要かもしれないけど、原発の魂そのものってあるんだろうか?」

 『わたしたちは、わたしたちが造りだしたものにも、生命や魂があると思っているわ。あなたたちには、その技術や精神がない様だけど、原発の気持ちも考えてあげないと、と言った人の日記は貴重だと思うわ。

 もちろん、その話と同時に、あなたたちの責任の取り方とは何か、を考える、ということも大切だわ。これは原発の話だけではないの。何度もいうけど、あなたたちの存在の、魂の問題よ。

 だから、少なくとも、繊細な問題で、あなたたちには、まだ困難が多いかもしれない。でも、この原発のことで、あなたたちは、そのことを考えなければいけないことになったのだわ。今までが手抜きが多すぎたのも問題だけれど、いま、ここで、考えないと、あなたたちの星のゆくえにも関わってくるの。

 わたしたちは、それを見ているわ。ただ、時間がないの。

 あなたは、震災と原発で2012年のことを実感したのね』

 「そう。君が言っている通りだった。そして、オレは生き残ってしまったんだ」

 『あなたが生き残ったのは、それこそ罪ではないわ。亡くなった人たちもたくさんいるけれど、あなたの言う、罪、ではないの。

 ただ、生き残った人たちには、さっきの責任についての考え方を知ってほしいと願うわ』

 「これはまだ続きが必要な話だね。オレもその責任をどう実感できるのか...」

 『それは違うわ。わたしたちの考えは、さっきの意味では、実感する必要はないの。あなたの知った空洞、あるいは空、という在り方を追究していくことをすすめるわ。あなたは具体的な方法も実験しているし、大切なことだと思うわ』


 という様な対話がエールーエンと続くのであるが、今はこれで材料出尽くしである。字数も超えているかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-01-07 23:10
 普通のテレビ、というか、テレビ局はもういらないから、テレビを処分することを考えている。ウチでは、あんまり普通のチャンネルは視ない。お金を払ってCSやBSを主に観ている。お金を払った情報なら、たぶん大手のテレビ局やら新聞よりは、まともな情報が入るのではないか、と思っていた。

 確かに、CSの方が、同じ系列局にしても、ずっとまともな内容である。少なくとも、原発事件(もはや原発事故とは呼べない)についての報道は、そうだった。

 しかし、オレはそもそも、昔はテレビを使っていなかった。FMを聴いて、録音することが日課だったから、テレビなど観るという気にもならなかったのである。

 だが、テレビを入れたのは、理由があった。それは、BSで将棋の名人戦の中継を観たかった、死語でいうと、大リーグの試合が観たかった、それだけである。

 という訳で、ごく限られたジャンルについて、「贅沢がしたい」ということで、やっと、テレビとビデオをそのとき入れたのである。

 ところが、今は、そのBSもあまり面白くない。将棋の中継は、昔のBSの様に、怖ろしく贅沢に時間を使ってやっている訳ではないし、MLBにもあまり関心がなくなってしまった。

 今はネットで、将棋は月500円くらいで観ることができる。今は昔と違い、ネットは当たり前である。

 ニュースの類にしても、原発報道などみると、NHKをはじめとした大きな局は、ウソと隠蔽の報道ばかりであった。まともなものを観ようと思うと、ニコ動とか、You Tubeなどをはじめとした「動画サイト」とか、ネットラジオの方が、遙かにまともだったし、充実していた。今もそうである。

 そんな訳で、もう基本的な意味では、テレビと新聞、というか、テレビ局と新聞社は必要ないし、情報もまともとは言えない。それなのに、NHKは、まだ受信料を取るのだろうから、全くおかしな話である。

 娯楽は減るというのは、残念だが、ウソだらけの情報が家に「侵入している」と思うと、根本から止めた方がいいんではないか、と思ったりする。

 それくらい、テレビ局と新聞は迷惑な訳である。存在意義がないのではなく、迷惑、害悪、なのである。これらによるウソ報道で、裁判沙汰が起こらないのがおかしいくらいである。

 実行するかどうかは、まだ分からないが、テレビの報道というのは、迷惑以外の何者でもない、ということが、原発事件に関する報道ではっきりした。彼等は犯罪行為を犯している、という言い方の方が正確ではあるが。

 という訳で、原発報道を観るに、テレビ局とか、新聞社というのは、もういらないし、軽蔑の対象でしかなくなったのである。

 気象庁とかも、存在意義を失ったし、ウェザーニュースにまかせた方がいいんではないか、とさえ思う。気象庁の「われわれは、IAEAに情報を提供している訳であって、国民に情報を提供している訳ではない」という、気象庁のコメントで、もう終わりである。

 もちろん保安院などもいらない。昔のことばでいうと、気象庁とか、保安院は、人民裁判の対象である。

 なんでこれらがいらないか、というと、全て、肝心なときに、国民を裏切り、国民に対して犯罪行為を犯しているからである。

 その意味では、国もいらないか。というか、日本には国家というものが存在しない、ということを、今回の原発と震災への対応で、実感せざるを得ない。

 オレがお金と語学力がある人間だったら、原発からヨウ素が出た、という報道の時点で、さっさと日本から脱出していただろう。

 というか、あれば、もっとずーっと前に、日本人をやめていたと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-01-06 23:54

ずっとニコ動を観てた

 武田邦彦教授の最近のニコ動をずっと観た。観るだけで大変な作業なのだが、洗脳を解く、という意味では、やはり観る必要があるだろう。

 ついこの間まで、日記はほとんどの内容が洗脳に関することであった。専門的な洗脳の問題ではなく、日常、くらしの中にある洗脳について、自分の暮らしぶりから書いていた。

 皮肉なことに、震災に伴う原発事故、というより、原発事件、を通じて、自分たちは、肝心なときに、政府も、企業(今回は東電、東京電力、TEPCO)も、本当の情報は出さない、隠蔽する、ずいぶん時間が経ってから発表する、ウソをつく、分からない様に報道・コメントする、というのが実態である、ということを知ってしまった。

 オレは、それまでテレビを観るのは、報道を観ているのではなく、「どういう意図で、どういう洗脳をしようとしているのか」を体験するために観ていた。あるいは、CSと普通の電波による報道の違い、というものを、言ってみればフィールドワークしていた。

 今回は、地上波の類は、全部ダメ。特にNHKは酷かった。CSは、それなりだった。しかし、いちばんまとも、あるいはまともそうな情報は、全てWeb上のものであった。お金を払っているのだから、CSがもっとよいことを期待したのだが、ニコ動やYou Tubeがいちばんまともだった。

 娯楽も含めてウチではCSに依存しているが、良質な情報の出所を知っている限り、圧倒的に、ニコ動とYou Tubeがよかった。

 怪しいと一般には思われるかもしれないが、グレーゾーンの情報も含めると、普段見ていた人様のHPがやはり役に立った。

 そんな訳で、もう地上波やBSや新聞は役には立たない、あるいは、洗脳されるためのメディアとしか考えられなくなった。

 だが、怖いのは、そのニコ動やYou Tubeでさえ、今後はどうなるか分からない。例えば、中東のアルジャジーラテレビすら、米国の資本に買い取られようとしている。当然のことながら、報道の内容も変わるだろう。(それとはちょっと違うが、googleのSkypeが、マイクロソフトに買われている模様である。)

 余談だが、あの説教くさいAC、公共広告機構の社長って、東電の社長だか、会長だかが、社長をやっている。この時点でどうなっているかは知らないが、震災と原発事件(もはや、原発事故とは呼べない、人為的なものである)からのあの異常なテレビの画面で洗脳する様に流れていたCFは、東電の自作自演の様なものであるとも言える。

 情報がないときは、偽の情報でもいいから欲しい、というのが、人間の生理というものであるかもしれないが、探せば、有効な情報は転がっている。少なくとも、ネット上が、いちいち検閲できないだけの圧倒的な量である限りは、全ての有効な情報が遮断される、というのは難しいだろう。

 だが、そうした情報を出している人たちや、機関が狙われる、ということはあり得る。これがいちばん怖ろしいことである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-01-06 00:24

思考の密度

 真理というのは単純なものだという。オレはそこまで単純な真理を体感できたことは少ないのだが。

 このところ、見えない存在との対話が当たり前になってしまい、どこまで自分で考えたらいいのか、ということが、実によく分からない。

 彼女にしても、直球勝負で真理を伝えてくれるので、どこまでを、自分で自分がそこにたどり着く努力をしていいのか分からない。

 自分の思考の分が薄まることと、真理を知ること、ということのバランスがよく分からない。ただ、確かなことは、本来すでに知っていることを実感するために、不自由な三次元での生活を選び取っている、ということだ。

 自分の力で問題を解く、というのは、どこまで要求されるものなのか。

 ガキの頃、分数のテストがあったことがある。市販のテスト教材だったが。全部で10問あった。解答できたのは、6問。結果は60点だった。60点というのは、オレの中では、最悪の成績である。

 だが、担任のサッカー狂いの先生は、「いいか、お前、全部合ってるぞ。考え方は正しい。ゆっくり解け」と言ってくれた。

 そのことが妙に印象に残っている。

 それと全く反対の例だが、国語の授業であった。教科書を読まされたのであったが、オレは漢字を書くのはあまり得意ではない。だから、読むときも、一瞬、漢字で間を置く、確認する。

 そうすると、そのときの国語の教師は、オレが読む前に、その漢字を読んでしまうのである。これでは間違える機会さえ与えられない。

 どういうことか、というと、よい教師というのは、生徒の持っている力を奪わない、ということが言えると思う。

 彼女がオレの力を奪う、とは思っていない。というより、むしろ、オレの水準にいつも合わせてくれている。だから、科学も精神性も、われわれよりずっとすぐれていても、彼女と対話を続けることができるのである。

 こうなってみると、オレが教わっていること、あるいは教われること自体が、素晴らしすぎるのかも知れない。

 とりあえず、自分の思考を試すのに、自分さん、たちと対話しているところを、彼女に傍聴してもらってみている。自分さんたちで、意見がまとまり始めたら、そこでエールーエンに感想や意見をもらうのである。

 この方法が、三次元を生きる存在として、最良の在り方かどうかは分からない。だが、いろいろ試してみる価値はあると思う。

 自分一人で思考を煮詰める、というのは、ある意味で楽ではない。少なくともオレの場合は、難しい話になってしまうからだ。難しい話を考えるな、という先輩もいるが、どうもオレには、考えないことは合っていない。「考えるな、見よ」という意味で考えない、というのは、重要なことだが、それは、考えた挙げ句に、気づく、という意味なのかもしれない。

 直視、とか、直観、ということばがあるが、これが求める道ではある。すくなくともエールーエンは、その方向に導いてくれている。

 今までが、考えることが重く複雑になってしまうのが当たり前だったが、それはモノローグが続いたからかも知れない。モノローグの中で気づく、というのは、なかなか難しいことなのかもしれないが、その結果、空洞という在り方に気づいた、ということは言える。モノローグ自体が意味がない、ということではないと思う。

 彼女との対話の中で、直観をぶつける対話にまでなれると、嬉しい。今は話せるだけでも嬉しいのだが。


   2011年3月11日以降の日記
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by bwv1001 | 2012-01-05 00:57

2012年問題の記事

http://www.y-asakawa.com/Message2011-1/11-message44.htm

 2012年問題を調べる様になったのが、昨年の9月。そして、本当にその通りの天災続きだが、上記のURLでは、太陽活動の問題を取り上げている。

 毎度紹介している、宇宙天気ニュースは以下。

http://swnews.jp/

 上記の記事にもあるのだが、太陽風や磁気嵐の大規模発生で、電気に依存している機械やネットというのは、壊滅的なダメージを受ける可能性がある。それが2012年問題の一つの側面である。

 都市で生活していれば、水道のお水さえ飲めなくなることになる。今回の震災以上の被害が出る可能性がある。

 その名も2012、という映画があったが、これはトンデモと言われる情報も含めてつくられている様だ。人類は、選ばれた人々だけが、箱船に乗るという設定である。そのときの津波の波高は7000メートル。

 確かに、今、惑星X、あるいはニビルと呼ばれる3600年周期で太陽系を回っている惑星の影響が出ているのかもしれない。ニビルは太陽にとっては花粉の様なものであり、その影響で、太陽がくしゃみをすると、太陽系はどうなるか、という話である。

 その惑星ニビルは、2012年の終わりの頃は、肉眼では、月と同じくらいの大きさで見えるという観測結果がある。そうなったら、潮汐は大幅に変化するだろうことが、予測される。今でも、天災続きの地球であるが。

 自分自身は、死ぬときは死ぬ訳で、じたばたしても、仕方がないと思っている。波高7000メートルと言われても、よく分からない。そうだとしたら、都内はおろか、日本など一発でのまれてしまう。

 ところが、同時に、その太陽活動の活発化の影響で、人間のまだ眠っているDNA情報の97パーセントが目覚めるという。意識の進化とも言えるのかもしれないし、生物としても進化する、ということだろう。そのことを待望している人たちもいる。

 これが、トンデモ情報か、現実となるかは分からないが、世界中の天災の続出、という指摘というか、予言というかは当たっていた訳である。かつてのブッシュ政権も、地球はまもなく住めない星となる、と言っていたし、ブレア政権も、いちばん怖ろしいのは、天候が全く読めなくなることだ、と言っていた。その言葉は本音だったのだろう。

 しかし、今回の震災では、大切な情報は開示されない、ということを、われわれは体験した。ということは、今分かっていることでも、開示されない事実としての情報というのはあるのだろう。

 死ぬ準備も大切だが、生き残ったときの準備というのは、それより苦しいかもしれない。現に、被災地の様子を伝える映像からは、そのことを考えさせられる。

 今回、オレはたまたま生き残った側にいるだけだと思う。そう思うと、次も生きる準備をしないといけないと思う。精神的に。他の準備は、できることなのか、しても役に立たないことか、オレには分からない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-01-03 01:09
 震災・原発事故以来、いいことがないが、その影響から、新たな「世界との関わり方」が必要になっていると思う。自分自身も、毎日、その試行錯誤、というか、いろいろな結果を得ている。

 いまのところ、「関心を持つ」ということが、新しい世界への関わり方のテーマの一つである様に思われる。いまの世界の状況が、荒み・すさみ、であるとしたら、それに対する関わり方として、「関心を持つ」という態度があるのではないか。

 関心については、きのうの日記でも書いた。

 関心を持たない状態、というのは、すさみを生み出すだけではないと思う。顔がなくなる、というか、存在の忘却、というか、そういうことがあるのではないか、と日常の観察からは思う。

 駅前で、毎日の様に、行き交う人を観察する。だが、不思議なことがある。顔、というか、存在として、覚える人は、ほとんどいないのである。

 観察するのだから、関心がない訳ではない。だが、覚える人というのは、大抵は、不自由なからだの人なのだ。あとは、よっぽど変わった人くらいだ。

 観察するときは、ただ見るだけではない。あたまの中で、瞬時にデッサンにしてみたり、色をつけてみたり、版画風にしてみたり、写真と風とか、マンガ風にしてみたりする。

 そこまでしているのに、というか、そこまでしているからなのか、覚える顔、姿、という人がほとんどいない。美人の人がいても、覚えてよさそうなのに、覚えない。おぼえない。ちゃんと見ているつもりなのに、である。

 ひょっとしたら、電車から降りた人たちだからかもしれない。通勤のときに、いちいち、顔や個性があったら困るかもしれない。ラッシュに耐えるには、人は人ではなく、モノに変身するしかない。そうでなければ、ラッシュなど耐えられない。自分をモノ化するのだから、他人もモノになる。だから、そこに、コミュニケートが存在してはいけないのである。

 積極的にディスコミュニケートするのが、通勤ラッシュだと思う。大江戸線など、オレは乗っていていつも辛いのだが、誰も、耳をふさいだり、叫び声をあげたりはしない。オレはギエーッとか言って乗っている。仕方なく。

 モノ化するんだから、自己の存在など忘却することなど、当然の結果である。そんな訳で、駅を出る人たちの顔や姿というのはおぼえられないのかもしれない。

 となると、他者に「関心をもつ」というのは、どうしたら可能なのか。

 たぶん、それは、「自分を大事にする」ことからしか、始められないと思う。自分を大事にする、という感覚が分からなければ、他人を大事にすることなどできない相談だろう。

 そういうことがどうやったら可能になるか、という画期的なアイディアというのは、今のところないのだが、とりあえず、自分のできることから始めることにした。

 それは、自分の記憶のクリアリングである。今は、ハイアーセルフと常時接続なので、以前とは違い、自己展開的にセッションするのは、実に快適だ。セドナ・メソッドとホ・オポノポノを同時並行的に使い、それに、筋反射テストを補助としている。

 きょうのセッションは面白かったのだが、また別に書く。ただ、ハイアーセルフとはまた別に、新しい人と繋がることができることが分かった。手放すセッションについて、具体的にいろいろ教えてくれる。面識はないのだが、意識すれば、それだけで繋がることができた。この人も一種のマスターなんであろう。「存在を聴き取ることが大切だ」とエールーエンが教えてくれたが、それが生きた格好だ。

 それから、いままで、からださんとか、意識さんとか、無意識さんをまとめて、自分の総体さん、と呼んでいたが、「自分さん」と呼び方を変えてみたら、これは具合がいい様である。

 自分がもともと持っているものと、学習したことが、うまく展開し始めている。淡々と生活しよう。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-01-01 23:36