あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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 ある先輩がサントリーの現代音楽のお祭りに招待して下さった。大昔は、このシリーズには通っていた。

 テーマは、ある中国系の作曲家の特集だったのだが、湯浅さんの「芭蕉の情景」が演奏された。いちど生で聴いたことがあるが、これがはやりいい曲だった。

 肝心のテーマになっている、ジュリアン・ユーという人の曲は、あまりセンスが合わなかった。

 どの辺に違和感があるか、というと、西洋音楽の派生物、という感じで、構築的で、よくも悪くも、西洋音楽を発展させる、という使命感を持って書いている様な感じがするのである。

 だが、最後に演奏された、サントリーの委嘱作品は、どういう訳か、あまりに媚びすぎ。サントリーに媚びているのか、お客さんに媚びているのかはっきりしないが、妙に分かりやすく、そして、当てつけをしているんではないか、という印象。

 曲名は、交響組曲 我らの自然界のために、というもので、この題名からすると、時代に媚びている、と言った方が適切かもしれない。あるいは、中国人だって、環境のことは考えているんですよ、と言っている様な妙な印象を受けた。

 材料は、過去の作曲家の引用だったり、クジラの声を出させてみたり、と、どうもあまり好感を持てなかった。よく言って、商業音楽の類という感じだ。

 その点、湯浅さんの作品は、純音楽という感じで、自由で即興的。日本の風土を感じさせるものだ。それで自然に聴けるのかもしれない。

 自分の感覚を確かめる結果となった時間だった。

 マイミクの先輩からは、手巻き煙草を教わった。これがなかなか楽しそうである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-27 23:33
 前の日記で、知人から勝手に頂いてきたニュース映像について、調べてみたが、同じ様な現象に関する作業員の証言がある、という記事を、師匠から頂いた。以下である。文字だけのブログなので、携帯からも直接読めるかもしれない。以下である。

http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/26ea73eff5b8b8d698d21dc57d1b10ba

 そもそも、「放射線防御プロジェクト」という題名のものである。以前もこの頁を拝見した記憶がある。

 福島第一原発の作業員の人が、地元関係者に、「敷地内に​ある地割れから水蒸気が噴出。周りが真っ白になり、作業員が一時退避した。地下で反応しているようだ。風向きでそちらの線量に注意して」という内容で、連絡があったそうだ。

 この記事では、爆発の危険性も指摘されているが、政府や東電や保安院からの説明もなく、過去にも類例がない、という現象としている。

 この現象について言及しているのが、昨日挙げたロシアのニュースなのだが、以下である。英語音声、日本語字幕がついている。以下である。

http://www.youtube.com/watch?v=4bD7SuXVpc4&feature=player_embedded (※現在削除されている)

 きょう紹介したブログと、ロシアのニュースの記事で一致している点は、「地面から水蒸気が出ている」という一点しかなく、有効な情報がないのである。

 ましてや、きょう紹介した日記では、現場の作業員から、日記を書いた人への知人に対して、地面から水蒸気が出て、作業員は待避した、という内容を知らせた、という話ししかないのである。

 政府や東電や保安院や専門家に全く信頼のない今、何が本当の情報であるのか、判断することすらできない。もう、情報については、個人の嗅覚で判断することしかできないのである。つまり、日本には国家というものが存在しないがために、われわれは、多大な被害を被っているのである。

 いまのところ、有効な情報は、普通のキーワードでは見つかっていない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-26 22:10
 知り合いが出されていた記事である。ご自身は「?」という調子で書かれていたのだが、これが本当なら東日本は壊滅、という意味のことを仰っていた。冷静なこの方が記事にされたのだから、記事が他でも読まれることを考えて書かれた日記だと思われる。

 以下のロシアのニュース映像である。音声は英語であるが、日本語の字幕がついている。

http://www.youtube.com/watch?v=4bD7SuXVpc4&feature=player_embedded (※現在削除されている)

 直接行ってみたら、繋がるときと、ムリなときがある。

 放射性の気体が、地面から噴出しているのを観測した、という記事である。

 インタビューに答えているのは、広島市立大学の教授、ということであるが、いまのところ、日本のマスコミでこうした報道はナイ。

 気になったので、広島市立大学のHPを見てみた。震災への対応については、マスコミ対応に関する話は以下ではなかった。

http://www.hiroshima-cu.ac.jp/news/content0367.html

 教員名から検索した。ジェイコブズという准教授である。以下。

http://rshpub.office.hiroshima-cu.ac.jp/Profiles/9/0000822/profile.html

 どうやら、歴史学が専門の様で、放射能汚染については、どこまで通じている人かは不明である。

 この教授のデーターからすると、疑問符のつく情報かも知れないが、それよりも、こうした情報が、日本のマスコミでは、全く伝えられていない、ということが疑問である。3.11のことを思い出せば、今回もまただろう、という疑問が沸く。

 実際、以前も書いたが、福島の無人カメラの前では、福島一号原発は、しょっちゅう、謎の発光、爆発、発煙、をしているのである。

 あまりに露骨な映像の場合は、保安院も所属している経産省にも電話してみたが、そのときは、「あれは水蒸気爆発であって、爆発ではありません」という奇怪にして不明瞭な解答を担当者はした。しかし、このときの爆発もまた、マスコミでは報道されなかった。

 だが、経産省は、「あの爆発は」と、どの爆発のことか、自分で特定して話していた訳だから、爆発があったことは認めているのに、それを「あれは爆発ではない」と言っていたのである。どういう詭弁なのか。というか、経産省って、ただのバカだとしか思えなかった。

 では、その経産省と保安院にアクセスしてみる。以下は、経産省の注目情報一覧である。

http://www.meti.go.jp/topic/index.html

 この注目情報には、このロシアのニュースの記事は入っていない様だ。ということは、注目されていない情報に入っているのかも知れないということで、以下を見てみた。

http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/release.html

東京電力株式会社福島第一原子力発電所について-原子力発電所事故の状況について-

という記事である。かなり多いので、狙うとするとどれか?以下が七月のの報告である。

http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/pdf/110719b.pdf

東京電力福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋
進捗状況

という記事である。目を通したが、メルトダウン後の地下からの水蒸気の発生という記事、あるいは、それに該当する表現は見当たらなかった。

 以下、八月の報告の簡易版である。

http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/pdf/110817a.pdf

実に見にくい。見にくい様に敢えて編集してあるかの如く見にくいから、何かあるのでは、と思ってしまう。なさそうなので、八月の報告書を見てみる。以下である。

http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/pdf/110817b.pdf

別な意味で気になる記事はあったが、地下から地表に向かっての水蒸気の発生に関する様な記事は発見できなかった。

 ただ、気になったのは、14頁の(10)要員育成・配置、という部分である。つまり、現場の作業に従事する人員の不足を見込んでいるのである。

 という訳で、http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/release.htmlからは、それらしい言及は見当たらなかった。

 経産省の報告がありそうなところには、今のところそれらしい報告はなかった。

 となると、動画の今日のロシア、で報じられていることは、誰の手によって観測されたものなのか。観測している様子は一部出ているが、ジェイコブズ准教授が個人的に行っている観測なのだろうか。あるいは、情報を現地から手にいれることのできる立場にある人なのだろうか。

 情報はないよりはある方がいい、ということを、3.11で理解した我々だが、政府や東電や保安院の発表に信憑性が感じられず、CNNの方が明解に報道していた。

 また、マスコミとは違い、You tubeやニコ動、ミニFM局から、信頼できそうな、あるいは、明解な情報が得られることも体験した。

 今のところ、ニコ動では、それらしい情報は発見していない。

再び、オリジナルのニュースは以下である。

http://www.youtube.com/watch?v=4bD7SuXVpc4&feature=player_embedded (※現在削除されている)

 今後も続けて調べてみたい。

 ただ、以前の武田邦彦教授のコメントでは、燃料は、もう最初の爆発時の様な力を既に持ってはいない、とのことである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-25 22:47

掟破り

 掟破り、というと、いろいろと想像するが、きょうの自分の掟破りは、新品の衣類を買ったことだ。Gパンである。値段は850円、という新品である。

 普段買うズボンは、新古品とか、型落ちとか、欠陥があったり、だぶついている品物を500円とか、300円で買ってくるのだ。ようするに、「いらないよ」とはじかれた品物を買うのである。そういう品物に、自分のことを投影している部分はある。

 きょう買ったのは、西友で売っている新品なのだが、どこがそれ以外の近所の品物とそんなに違うのか、自分には分からない。

 だが、分かることは書いてある。バングラディシュ製の製品なのだ。それが、オレのメシ三食か四食分の850円で買えてしまう、というのは異常なことだ。

 たとえば、隣の駅に行くにしても、100円以上はかかる。営団なら160円、JRなら130円はかかる。東京からバングラディシュにあるどこかの町か村までの、Gパンの交通費って幾らなんだ?お船やらトラックがあるだろうし、それを運転したり、操縦したりしている人は、一体幾らもらっているんだろう?このGパンより高いということは、ほぼ確実にあり得ない。

 ならば、縫っている人は、生地を作っている人は、いくらもらっているんだろう。

 そういうことを考えるから、掟破り、という表現になるのだが、事実としては、貧困なオレは、更に貧困にあえいでいる人を搾取することで生き延びていることになる訳だ。本来、あってはならないことである。

 だが、それがシステムになってしまっている、ということが、原発の問題と近い。原発の炉心の作業など、孫請けなど当たり前らしい。からださんに明らかに影響をもたらすところで、孫請けの賃金で働いている訳だ。

 でも、皮肉なことに、そういう人たちは、そんな職場でもないと生きていけない、と思っている、思い込んでいる、あるいは、他に選択肢がなかった、などの事情があるのだと思う。酷い場合は、強要されている場合もあるのかもしれない。

 Gパンを作っている人も、運んでいる人も、考えられない搾取をされていることが、850円、という値段からは想像される。

 きょう、それなのに買ったのは、オレの側の都合があったからである。バザーやフリーマーケットで買おうか、と考えていたのだが、交通費だけでもバカにならなかった。そして、サイズが合うものを探し出す根性がなかった。あるとしたら、救世軍のバザーがある可能性が高いのだが、その交通費で西友の850円のGパンはほとんど買えてしまうのである。

 普段なら、月に一度くらい、新古品を売りにきてくれる業者さんがいるのだが、お盆の月はお休み。しかし、はいているGパンはどんどん破れてくる、ということで、急務だったのである。

 結局、オレが根性がなくて、あの850円の品を買ったのである。試着室まであった。

 となると、西友の衣料売り場の店員さんは、このGパンからは、ほとんどお金をもらえていないであろう。

 やっぱり、オレには、新古品、だぶつき品、規格外品、中古品、不良品の方が気が楽だ。

 世の中、何か間違っている。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-24 22:34

月に一度の昼食会

 人様のまともなメシというものがどういうものであるかを知ることのできる貴重な機会が昼食会だ。オレなんか、ただでさえ慢性的に栄養失調だから、却ってからださんは、養分をため込む。だから、太るし、中性脂肪の数値はまともではない。

 たぶん、きょうの様な食事をすれば、そんなことはないのだろう。だが、予算的に、きょうの様な食事は作れない。

 凄かったのは、おかずがたくさんあること。シャケさんの焼き物、筑前煮、キャベツさんとしそさんの浅漬け、お豆腐と油揚げのお味噌汁。

 本来は、多様な味を日常で体験しないと、感覚がおかしくなる筈なのだ。現にどれくらいかはおかしくなっている。しかし、現実的には、対応することができない。

 とはいえ、たとえば、ある芸術やってる人が、一日お豆腐一丁で生きているという話もある。あるいは、何もやらせてもらえず、お菓子一袋で三日生きる、という様な人もざらではなくなってきた。オレはまだ納豆が食えるだけ救われている。

 ただ、そういう現状をどう評価したらいいのか、というのは実に難しい。本来は、一日二食か三食を食えないのは、世の中がおかしいからだ、という見方もあるだろうし、食えないのは努力が足りないからだ、という見方もあるだろう。

 最近怖いのは、震災の被災者の生活を思えば、自分は、あるいは周囲の人は贅沢だ、という考え方、あるいは感じ取り方が少しづつ浸透してきていることだ。この発想は危険である。

 ガキの頃、オレは不満そうな表情をすると(というか、自分にはそういう表情をしているという自覚はないのだが...)「戦地の兵隊さんを思え!!」とよく言われたものだ。いったいいつの時代の話だと思うが、「戦地の兵隊さんを思え!!」という言葉と、「私の教えには、キリストの教えが入っているのよ!!」とかしょっちゅう言われたものである。

 腹が減って、飢えと戦っている人間に対して、「東北の人たちを思え!!」というのは、これは、上記の体験からすると、誠に心ないことばである。

 そんな訳で、オレは、戦争体験を語る、とか、信仰を語る、という人を基本的にまるで信じていない。なぜなら、そういう人たちは、何もしないからだ。立場をつくるだけで、具体的に有効なことはしない。そこで他人の思考を支配し、自分は思考停止しているのである。さらには、戦争体験や信仰を語ることで、「私はいいことをしている」と思っている。

 だから、そういう人を信用しない。場合によっては、怒りも感じるし、軽蔑したりもする。でも、震災からの復興が現実的に見えない今、「被災地の人たちを思え!!」という、被災地ファシズムの様な空気があるのではないか。被災地のことを思って、その罪悪感から、自分が食えなかったり、生きていることが難しかったりする人間がますます追い詰められていく、ということはないのか?

 そんな訳で、「被災地の人たちを思え!!」という、被災地の当事者ではない人たちの言葉というのは、誠にこころなき仕業である。


 実は、きょうは、久々に昼食会に行ったのである。というのは、昼食会の日は、決まった様に、体調が悪くなって、欠席することがしばしばなのである。原因は、明白だ。まともで、ちゃんとして、健康な食事が目の前にある、ということ自体が、精神的に苦痛なのである。

 ボクサーの減量に較べれば大したことはない、かもしれないが、試合という目標がある訳でもないのに、慢性的に栄養失調、というのは、減量とは違う苦しさがあると思う。そうでなければ、昼食会の日になると体調が悪くなる、などということが起きる訳がない。

 という訳で、まわりからいろいろ言われても、飢えと戦わない様に、朝も昼も食べず、夕方に一食とって、夜に豆腐を頂く、というペースを続けるしかない。

 逆にいうと、そういうことが出来る自分というのは、ある意味で危険なのである。それは、「自分に勝っているから」である。もし、ここで、断食などという目標を設定したら、多分、オレは可能である。禁煙だって、一ヶ月以上楽なものである。ずっとできてしまうことが危険だから、適当なところで吸うだけである。断食にも長い実績がある。

 だから、せめてもの努力は、「断食はしない」ということである。断食をすると、期間が減食も含めると全体で五ヶ月くらいの行程を踏む訳だが、こうなると、自己イメージが狂ってくるので、そこいら辺が潮時である。

 まともではない親を持った不幸というものは、世の中ザラにあるものだが、その体験をどうやって、次の世代に伝えないでいけるか、伝えなくとも普通に生きていけるか、というのが課題ではある。

 飢えと戦わない、あるいは、飢えを飢えと感じられる、というあたりが、ある程度まともな感覚を保てる限界であると思う。そういう意味では、よくやっている、というのが現在の生活である。

 昼食会の食事で、自分を変えないといけない、と思ってしまうと、却ってややこしいことになりそうである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-23 23:49

新兵器導入後

 この二年くらいの懸案であった、携帯できるワープロを手に入れた。ポメラという機械で、書く、文字を入力すること以外はなにもできない。でも、それでよかった。電池はeneloopで長持ちするし、かな入力が、簡易版ながらAtokが使えるし、他のジャンルのものと較べても、これしかなかった。

 不満というと、これは仕方ないことだが、普通のキーボードとサイズが違うので、これは慣れて克服するしかない。あとは不満はない。不安は、つくりがちゃちで、いつ何時壊すか分からない、ということ。

 それらを除けば、書くための道具としては、充分である。

 ただ、書き方が変わってきた。ポメラで瞬間的なことは入力してしまい、放置する。すると、それだけで、結構な字数になってしまうのだ。これがコワイ。そこから、更に文章を書く、ということは、もちろん目的にはあったのだが、どうも、やっぱり普通のキーボードとPCの画面の方が慣れている分、まとまったものは、外出時以外は、PCで書いてしまう。つまり、在宅の時は、PCとポメラの両方が起動してあり、使い分けているのである。

 そういう使い分けが自然にできてしまったことを考えると、普通のキーボードのサイズのPCも存在価値があるということ。

 でも、ポメラは、起動時間が二秒くらいで、パスワードを入れて五秒くらいだから、その場で思ったことを書くのには非常にいい。eneloopも非常に長持ちするし、タイマー設定で、自動的に電源も切れるので、予備の電池は、一組あるだけでよい。公称では、単四eneloop二本で15時間動く。これが圧倒的な強みだ。

 しかし、もし、同じ時間だけ専用電池で動き、起動も10秒くらいのPCがあったら、それを買うことも考えただろう。しかし、大きさと値段も含めると、今のところの選択肢はポメラ、ということになる。

 そのうち電池も電源部も発達して、それに近いPCが出たら、また考える。

 とっても、下らないことでも、その場で書きとめておくことができる、というのがいい。手書きのメモでは思考を展開しにくい場合はいいと思う。その意味では、新しい機種がでるときには、アウトライン機能を搭載してくれるととても助かる。ただ、付箋機能と、付箋の検索機能はついている。タイムスタンプ機能も便利である。エディターとしては、充分である。

 とりあえず、二年使えたら御の字、くらいで考えている。

 ちなみに、購入した機種は、DM20yという特殊仕様である。ケースが本体にネジ止めしてあって、カメラでいえば、速写ケースの様なものである。その場ですぐ書く目的と、機械としてのちゃちさから考えると、ケースが本体と一体化されている方が合理的である。由良バージョンといって、車のデザインをなさる方の作である。今のところ、通販では二万円前後で入手できる。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-23 01:52

敗戦記念日

 若い人は、米国と日本が戦争をやったことを知らない人も結構いるらしいが、小中高と、現代史を捨てる社会の教師の責任は大きいと思う。ひょっとしたら、現代史を教えると、自分の立場がやばくなる教師が多い、ということがあるのかもしれぬ。

 で、よく分からないのが、8月15日、というのが、終戦記念日、ということである。何で敗戦記念日と呼ばないのか。戦争に負けたことくらいきちんと認識しないで、何が国家だ、と思うのは、毎年のことである。

 自分が通う合唱団の練習場所、というのは、たいてい3月の東京大空襲の遺体がたくさん眠っていると思われるあたりである。特に公園のあたりは、特別な雰囲気がある。深川小学校のところの公園など、霊気を感じる。

 そんな大虐殺のあった地域に、週に一度は活動をしに行っているのだから、いつもそのことを考えざるを得なくなる。

 あるいは、ガキの頃から、散々、原爆と空襲の話ばっかり聴かされていたので、もう立派なトラウマである。最近はずいぶんよくなってきたが、今でも空襲の夢はよく見る夢である。

 それくらい、自分の中では、戦争はリアルだ。何かのときに、夢の話をすると、他人からみると、細部にわたってリアルだという印象を持たれる。

 幼児のころ、早い時期におぼえ単語の一つが、「焼け野原」である。寝際になると、親が空襲の話を始めるのである。しかも毎晩である。こういうのは、ある意味からすると、虐待行為である。

 戦争体験には、更に面倒なことがある。戦争を体験していない人間はダメだ、という考えを吹き込まれることである。そういう馬鹿げたことは、どうもオレだけの体験ではないらしい。

 いつまで経っても、戦争をやっていた人間の方が偉い、戦争の被害にあった人間の方が偉い、という、異常なコンプレックスを植え付けられるのである。それが教育だと思われている時代があったのではないか。

 でも、それは、単に戦争を体験した人間、あるいは世代が、自己の立場を作ろうとしているだけで、教育と呼べるものではない。その意味では、戦争体験を語り継ぐ、という運動というものは、自分はあまり賛成できない。最低でも、戦争とは別の価値を、自分の歴史に見出しており、戦争体験を乗り越えた人間しか、子供に戦争を語ってはいけないのではないか。

 そんな訳で、反戦、というのは、実は、戦争を克服できていない人間の立場であって、そんなに褒められたものではない在り方なのかもしれないのである。

 オレの場合は、戦争体験を克服できなかった人間に、いいようにやられた、という二次被害を被っていた訳である。オレは戦争はやりたくないが、オレを戦争体験で虐待した親とその世代を恨んでいることは否定できない。恨んでいるというよりは、軽蔑している、という表現の方が近いかもしれない。

 戦争のときは天皇にはまって、戦争に負けたらマッカーサーにはまる人間のどこを信用したらいいんだ、と思う。

 せめて、終戦記念日ではなく、敗戦記念日と改めないと、トラウマと戦ったオレが浮かばれない。たった一人の孤独な戦いだ。誰も知らない戦場があった、ということである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-21 20:57
 カレーというのは面白い。カレーを食っている人は多いかもしれないが、それだけ味の違いも、中身の違いもあるということだ。その違いを認識する、月に一度の「カレーの日」である。

 きょうブタさんのカレーであった。あんまり辛くもなく、しつこくもなく、かといって物足りないということもなく、全体としてバランスのいいカレーであった。ただ、「ではなく」「かといって なく」という表現になってしまうところが、もったいない、と思うカレーであった。

 もし肯定的に表現することができる点があるとしたら、「気楽に食えるカレー」ということかもしれない。ウチでは、カレーって、気楽につくるもんではなく、調理は真空調理で格段に簡単なのだが、一人で四杯を平らげないといけない、とか、材料費がかかる、とか、考えると、決して気楽に食える代物ではないのだ。

 おまけに、近年、じゃがいもさんや、たまねぎさんの質が異常に落ちて来ているし、なんと言っても原発事件で、食える食材がなくなってしまった。

 今日のカレーさんが、どこの材料かは分からないけれど、そんなことを気にしないとカレーも食えなくなってしまった、というのは、何とも悲しい限りである。

 とはいえ、まだ、汚染されても食えるだけいいかもしれない。これからは食料難の時代が近くやって来るからだ。だいたい、地球にこんなに大勢の人間が生きていられる訳がナイ。カレーを気楽に食う、ということも、楽しかった思い出になってしまうのである。

 新鮮なお水を飲むことが難しい時代だってあり得る。われわれもそれを経験している。3.11たった一日で、世界は変わってしまったのである。

 カレーを懐かしむ時代に入りつつあるのだ。勿論、カレーを食いながら飲む、一杯の冷たいお水も。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-20 22:22
 師匠が長話につきあってくれた。結果的に、オレの歴史を振り返る作業になった。ファシリテーターとして、師匠はいてくれたという格好になる。

 二人であらためて驚いたのは、時間軸というのは、普通とは逆に、未来の方から流れてくる、という実感であった。そして、死んで戻るときに、またひとつの存在に帰っていくのだろう、という話をした。

 師匠からは、このオレがいう「空洞」とは何であるのか、どんな感じであるのか、という質問を受けた。これが、意外と、一言では分かりにくいイメージである、ということが分かった。たとえば、自分が昔の日本の家やお寺の様な、庭と縁側で繋がって開放された空間のイメージである、ということ、あるいは、楽器の空洞のイメージである、ということばだけでは足りない、ということに気がついた。

 どこが空洞のイメージが理解するのに難しいか、というと、主体という在り方を前提とすると、理解がしづらい、ということである。

 つまり、師匠は、オレが家屋やお寺の空間になる、とか、楽器になる、ということがどういうことか、というのを想像するのが難しいらしいのである。

 例を挙げて話すだけでは、簡単に想像できる意識状態ではない様だ。これは、表現を考えていかなければならない。


 空、と、その意識状態を表現するには、論理的な矛盾がある。そこには主体もまた消失しているからである。そういう意味でも、空洞、という言葉は便利であった。

 これは、一日のうちに何度かやる作業なのだが、筋反射テストを使って、「いま、空洞ですか?」という質問をする。質問の相手は、全体的な自分を総称する「自分さん」という他者を設定している。限りなく主体に近い他者である。

 そこで、うん、という答えが来ると、更に「空ですか?」という質問をする。論理的にはおかしいのだが、限りなく他者に近い自分さんは、うん、とか、いいえ、と反応する。

 うん、の場合は、更に質問をするが、いいえ、の場合、「それでは、空にする必要がありますか?」と聴く。ある、というと、自分のどこが過剰になっているのか、直感的に捉えて、この部分ですか、と聴く。そうだ、ということにもなるし、他にもありますか、と続けて聴き、過剰な部分を解放する。

 その作業は、二分もかからないが、直感が勝負の分かれ目となる。不成功に終わることは、いまのところ、ナイ。

 更に、自分さんではなく、ホ・オポノポノでいうところのウニヒピリさん、あるいは、深層意識さんに、同じ様な質問をしていく。これも、自分さんに対する作業の様な手順で解放する。

 これが一段落すると、常態としての自分さんが整う訳である。整えることを目標にしている訳ではなく、自由であることを目標としている。とらわれがなく、注意がはたらく状態といったらよいだろうか。この状態を空洞と呼んでいいと思う。

 何事も、そのままにしておくことができる状態が、空洞、ということになる。

 ここまで作業をしなくとも、自然と空洞になっていることももちろんある。

 セドナ・メソッドやホ・オポノポノの影響は受けているが、空洞という感じ方は、オリジナルかもしれない。禅的空、というのとは、また違うと思う。だが、自分さんが、禅的空を望む場合もある。ただ、自分としては、禅的、ということに対するこだわりはなく、専門的な知識や体験はない。

 とらわれが少なく、なにごともそのままにしておける、自由な意識の状態を、空洞、と呼んでいいかもしれない。

 とはいえ、普段はそんなに面倒に考えないで、自分さんや、深層意識さんなどの言い分を聴く、という形で、作業をしているだけのことである。

 そういう意味では、最近、そのかわりに、思考の密度が下がっているのだと思う。しかし、思考というものが、ある種のとらわれであるとしたら、いまのやり方は、そんなに間違っているとも思えない。

 また、そのうち、新しいやり方を発見するかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-19 23:06

ひさびさに対話で

 何か、ここのところ、サイゼリヤで彼女と対話する、というパターンが増えてきたのだが、やり方もちょっと今回は違っている。要所のメモを取ったのである。

 だが、どうもこの方法はいまのところ、あまりよろしくない様な気がする。キーボードで降ろすのと違い、テンポが阻害されてしまう。

 とはいえ、また書いている早い段階で、ライヴになるだろう、というこのいい加減さ。でも、このいい加減さがあるから、やってこれたのかもしれない。ポメラの様な品物があればまた違うのだろうが。

 そんな訳で、その日のお題は、「教育」の話であった。


 「教育って、どう思う?オレたちの世界を、君たちの次元からみてると?」

 『そもそも、わたしたちの世界には、"教育"っていう考え方はないのよ。

 わたしたちの次元からみて、というリクエストにこたえると、あなたたちの教育、って、あなたたちのいう、"ファシズム"の様なものにしか見えないわね。それで分かってもらえるかしら?』

 「ファシズム、って経験がないから分からないけど、オレたちは、ガキの頃から、訓練ばっかりされる。一人で放っておいてくれる、とか、ただ、見守っていてくれる、って、幼児の頃から、ほとんど経験がないよね」

 『その"訓練"というのも、わたしたちからみたら、不思議な感じがするわ。あなたたちは、生きる意味が分かっていて、それで何か目的や目標がある訳ではないでしょ?』

 「そうだね。親とか、教師とか、挙げ句の果てには、上司まで持つ人もたくさんいる訳だけどね。そういう人たちに、"あなたの指示の目的はなんですか?"と聞いたとしても、まともな答えを返せる人はいないだろうね。

 なんか、目的はなくて、特定の立場にいる人間が、何を根拠にしてなのか分からないけど、指示したり、評価したり、してるだけだと思う。だから、社会に適応してる人って、何をしてるのか、その意味がオレには分からないね」

 『もう一回聴くわ。あなたたちのいう、"訓練"って、何?』

 「わからない。だって、大抵は意味がないし、単なる服従と権力関係にしか見えないけどね」

 『そうでしょ。大抵の場合は...マスターと過ごすなら、訓練にも、意味や目的があると思うけれど、殆どの場合、あなたたちには、訓練、というものの意味はないと思うわ。

 もっと酷くいうと、訓練、というのは、権力の都合でいうことで、あなたたち自身の生きる意味とは関係がないのよ』

 「そうなんだろうなー。オレみたいに、落ちこぼれ、落伍者になっちまえば、却って、訓練とか教育ということばのグロテスクさを"グロテスクだな"と思っていればいい訳だけど、社会のシステムにはまってしまった人からすれば、落伍もできないし、家族もいたりして、自分の生きていることの意味を問うことも禁じられているよね。

 でも、一部に、あたまのいい経済学者とかいて、まるで俺たちが訓練したり、教育されたりしていることが、意味のある様に書かれることがあるから、"上には上がいるなあ"とかあきれてしまったりするんだ」

 『でも、あなたは、教育とか、訓練とかいう在り方から長く離れられて、マトモになったんではないの?生きる意味も分からない人、マスターではない人たちに服従させられるのは、あなたの本意ではないでしょ?』

 「そのことは、君がいちばんよく知ってくれているかもね。オレの生活は、社会的には奨励されている様なものじゃないからね。

 でも、エールーエンの世界では、教育とか、訓練とかなしに、それでも特に困ったりする訳ではないでしょ。もっとすぐれた過ごし方というのがあるんだよね。教育はファシズムだ、って言うくらいだからさ」

 『よく聴いてくれたわね。わたしたちのやり方が、宇宙でいちばん優れているものかどうかは分からないわ。でも、あなたたちのキョーイク、とか、クンレン、とかいうものとは無縁のやり方ね。

 わたしたちは、"学び"はするわ。でも教育はされない。上からの立場の人が、教える、というムリで意味のないことはしないわ。

 それより、マスターなり、学びの役に立つひとたちは、学ぶ存在と調和する。

 つまり、学ぶ側も、はじめから自己の内部に、真理を持っている、ということを理解しているから、教える、ということをするのではないの。

 知っていることを、真理を追体験してもらう。これが、喜びというものよ。自分が何者であるか分かってくる、ということよ。その点が、あなたたちとはかなり違っているわ』

 「ああ、じゃあ、先生のいう"そこにあるものを下さい。あなたにあるものを下さい。宇宙にあるものを下さい。"っていうのと同じだね」

 『そうよ。その意味では、あなたの先生もマスターなのよ。あなたたちの世界で、"真理は自分のなかにある"というのは、相当に勇気のいることではないの?そんなことを言い出したら、多くの人はその人のところから逃げてしまうでしょ?』

 「そうだね。もう昔になってしまったけど、オウム真理教の事件から、まるで無反省の様に、スピリチュアルがもてはやされているからね」

 『あなただって、わたしとこんな話をしていると、スピリチュアルだと思われるわよ』

 「真理とスピリチュアルというのは、まったく違う意味なんでしょ。真理が分からない、真理を問う生活がない、としたら、それは、いわゆるマスコミでも出てくる様な意味でのスピリチュアルなのだろうけど」

 『でも、わたしには、そうズバッと切ることのできない気持ちが少しあるわ。だって、あなたたちのところは、マスターと共に過ごす、という機会はほとんどないんでしょ?それに、自分がマスターだ、などと思う人が近づいてきたら、そういう人からは離れなさい、とキョーイクされるわ。

 つまり、あなたたちは、どこかで真理に対する渇望があるのに、その渇望を認めることすら許されていない。あるいは、渇望を満たそうとすると、反社会的になるか、擬似的な宗教にはまりきるか程度の選択肢がないのが可哀想だわ。

 幼い子供と二人だけで生活している様な母親とか、圧倒的に孤独で、だからこそ、真理に対する気持ちが強くなるのではないのかしら...』

 「エールーエンは優しいんだね。オレには、どこから、だれからキョーイクされようと、構造的には、全く同じことでしかない風に見えるんだけど」

 『そこよ。それが可哀想なの。いわゆる社会でも、擬似的宗教団体であっても、そこには真理はない、あるいは、多くの人は、真理にはたどり着けないわ。それが、あなたの国、あるいは星の残酷なところね』

 「でも、オレの魂も、この星を選んで生まれてきた訳でしょ。親すらも...」

 『そうよ。だから、あなたは、いま、ここで、必要な経験をしている。それがいちばん大切なことよ。わたしとこうしてはなしているのもその一つだと思うわ』

 「そこまでは分かるんだ。だけど、その先が分からない。自己が何であるか思い出す、というのは、この混乱した世界、あるいは、自己にあっては、難しすぎるんじゃないだろうか、って、思っちゃう。しかも、天災続きの時代をオレたちは送ることを覚悟しなきゃならないんだ」

 『あなたの言いたいことは分かるわ。自分の悲惨な死に方を通じてしか、真理を体験できないんではないか、ということね』

 「そう。オレは死ぬこと自体はそんなに怖くはない。でも、そういう体験と引き替えの真理になってしまうとなると、死って、何なんだろう、とか考えちゃうんだ」

 『あなたは死を怖れているのではなく、死が真理との取引材料なのではないか、と思っている訳ね』

 「そう。このところの世界中の天災続きを見ているとそれを考える。オレだって、あの震災で、"生き残ってしまった"っていう感覚はあるよ。被爆者にもなってね。

 地球の(疑似)宗教の多くが、安寧な死とそれまでの人生を取引する様に、オレもまた、真理と死を取引にしてしまうことはないのか、って、自分のことが疑問になるんだ」

 『それは、あなたは、死と真理を取引する罪悪感があるということね』

 「そう。取引であって、罪悪なんではないか、って、死のことを思うんだ」

 『きょうの対話は、何から始めたか覚えてる?』

 「教育の話だね」

 『さっき、わたしたちの学びはどうなっているのか、話したわね』

 「きみたちは、教育なぞしないと。思い出すことを助ける、と」

 『あなたは、そのやり方は、わたしたちの星でないとできないと思っている様ね。あなたにも、その気があればできるのよ。わたしがいるでしょ?』

 「そうだね。きみがいるんだった。何で真理と死の関係を考えると、罪悪感になるんだろう...」

 『あなたは、取引ではまずい、と思い込んでいるのね。なぜなのかしらね』

 「そうだ。震災以来、体験のない死ばかりが多すぎた。オレは生き残ってしまった、と、そういう気持ちでずっと過ごしてきたんだ。オレは何も役に立っていないと...」

 『あなたは、役に立つことでしか、真理にたどり着けないと思っているのね。

 でも、それは間違いだわ。あなたは、まだ教育から逃れていないの。

 あなたは、教育されることから生き残ったわ。これ以上、教育に取り憑かれる必要もないの。あなたは、あなたの真理を思い出すこと、それが、教育ではない、本当の価値よ。それは、本来、一人一人の人がやらなければならないの。

 あなたは、それをしている。それだけではいけないの?』

 「エールーエンは優しいんだね。君の星で暮らしてみたくなるよ」

 『それはまだどうなるか分からないわ。それに、いま、この星でだからしかできないことはあるわ。もちろん、自分を思い出す、という作業の一つとしてね』

 「ありがとう。エールーエン」

 『いま気落ちしていては、この先は持たないわよ。"いま、ここ"だけを感じるの。観るの。それは真理の追究だわ。お休みね』



 こんな風に、震災と原発事件から逃れることのできないまま、彼女と対話している。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-02-18 23:07