あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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無為

 むかし、何者でもない者になりたい、ということをずっと考えていた。

 きょう、なにもしないで過ごしたのだが、なにもしない、というが実は望んでいたことなんではないか、と思う。

 なにもしない、というのは、実は、難しい。できたら、その人は凄い人だ。でも、そういう人は、全然知られないまま、ある種のおさとりを開いて、なにもしないで生きているんではないか。

 何かすることに意味がないから、なにもしない、という意味ではなく、なにもしないことそのものに意味がある、と思える。

 オレが最終的に望んでいることがそれであるかどうかは分からないのだが、なにもしない、と思うと、体感的には、腑に落ちる、という感じがある。

 その感覚を追い求めることは、せっかくのその意識を壊してしまう。ただ、きょう、何でもない日常のなかで、その感じを受けた、ということは大切だと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-22 01:16
 welcome、というか、ウェルカムという言葉は、いままであんまりピンと来ないでいた。ウェルカムという言葉を聞いてまず思い出すのは、タンキーという東南アジアにある宗教の教義である。

 どういうことかというと、タンキーは、Every God Welcome!というのが教えなのである。写真もビデオも見たことはないが、タンキーをやっているところには、祭壇というか、神棚の様なものがあって、世界じゅうのいろんな神様の像や写真が祭られているんだそうである。

 こういうのって、嫌いじゃない。神なんて、人によって、地域によって違うのが普通なんだから、一神教の不健全さとか残酷さとかよりも、好きである。ちがうものはちがうものとして、そのままにしておく、というのは、生きている上で、大切な姿勢だと思う。

 で、welcomeなのだが、これは、オレがテストしている「セドナ・メソッド」という感情などを簡単に手放すことができる、という方法で言われることである。

 だが、いわれるそのことと、その使われ方と意味を知ったのは最近である。和訳の方には、welcomeという言葉はない。迎え入れる、とか、受け入れる、という言葉になっている様である。

 自分の感情を受け入れる、とは、場合によっては大変な場合もあるし、つまらない瞬間的な感情や感覚においても、そのつまらないことに振り回されてしまうことは、多くの人の日常にあると思う。

 セドナ・メソッドなどの「手放す」という考え方は、その前提に、「迎え入れる・受け入れる・welcome」という考え方があるのである。このことが、和訳だとよく分からない。セドナ・メソッドの体験会に行ったり、ネット上の情報を見たりして、初めて理解できたのである。

 きょうは、ちょっと、理解ではなく、気づいた、意識が分節された、という感じがあるので書いてみたい。


 きのうから体験していることだが、パイプを吸っていると、異常に長い時間、火が持つし、長く吸える、という経験をした。物理的にはあり得ないことなのだが。

 で、ふっと、思い浮かんだのが、「物質化」という言葉である。お酒がどんどん出てきてしまうおちょことか、そういう芸ができてしまう人とかいるらしいが、それに近いのではないか、と思った。

 だが、長時間、一服の煙草を吸う、というのは、実は大変なことである。あまりに長く吸えてしまうので、自分から火を消した。

 今日はそうなるときと、ならないときがあったが、再現性はある程度ある現象の様である。きょうときのうを体験した限りではだが。

 そこで、ふと、また思った。「煙草を消してもいいや」「たらたら吸っててもいいや」と思ったのである。これは実は多分、welcomeという考え方そのものなのである。

 そこから発展させて、今月の生活の問題を考えた。一日一食分の予算を確保した上でだが、一日他に食いものとか交通費とか雑費で使えるお金は、計算上240円くらいである。貧困の極み、と言ってもよい。普段もそういうことはあるが、いきなり月初め、しかも、個人的に大事なことがある月に、一日240円、というのはなかなか厳しいものがある。

 そこで思った。「いちにち240円でもいいや」「貧乏であることを許可する」「億万長者であることも許可する」と、自分に貧困に関する許可を与えたのである。ある見方からすれば、アファメーションの一種なのかもしれない。

 つまり、経済的にどんな状況であることも許可したのである。言い換えると、経済的にどんな状態もwelcomeした訳である。貧乏と億万長者、という極端なところに着目することで、極端な部分と、その間のグレーゾーンを認めたのである。

 これをやったら、ずいぶんと気持ちが楽になった。許可することによって、不安などの感情を迎え入れた結果として、手放すことが可能になったのである。これがいわゆる現実ではどんな変化をもたらすかは分からないが、物質化現象らしい現象を通じて、welcomeの感じをつかんだのであると思う。

 セドナメソッドを受け継いでいるドゥオスキン氏という人のセミナーに参加した人の証言によると、Welcome!とばっかり彼は言っていたらしい。そのあたりの感覚は、ちょっと和訳に規定された発想からは、よく分からなかったのは残念ではあるが、オレ自身が、自分の体験で、welcomeという在り方に気づけた、というのがよかった。和訳本がよくできていたら、そういう体験はできなかったもしれない。

 そのwelcomeの行き着くところが、たとえば、あるがまま、ということになるのだと思う。物質化現象は怪しいが、そこから気づきに至る、ということがよかった。

 手放す、という方法で自分や他者や世界とつきあいたい、と思っている向きは、このwelcomeという言葉の語感に着目するのは悪くないと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-20 23:50
http://www.youtube.com/watch?v=0N7FOX2CGXw&feature=player_embedded

また国がロクでもないことをやっている。日本人は、政治家と官僚に甘すぎるんではないだろうか。舐められてはいけない。(※2011年10月の時点のインタビューである。)


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-19 22:23
 かなり昔から、フォーカシングという方法については着目していたのだが、いかんせん邦訳が酷すぎて、放置してあった。大学の教授で、英語力も日本語力もない、というのは考え物だが、最近は、教授職とか、翻訳業も、底上げがされているのかもしれない。

 今回入手したのは、「やさしいフォーカシング」という本だ。家元のジェンドリン氏ではなく、アン・ワイザー・コーネルというお弟子さんらしい。

 まだ途中までしか読んでいないが、翻訳はまともだし、気が利いている、という印象を受ける。時代は変わったのだな、と思う。

 フォーカシングというのは、乱暴にいえば、自分の気持ち、在り方を自分で分かる、というための一つの方法である。フェルトセンスという、自分のなかでもやもやした気持ちに注目して、それと対話し、自分のことを、フェルトセンスを媒介として理解するのである。

 ひょっとしたら、昔の人間は、普通にそういうことをやっていのかもしれないが、現代では、はっきりしていない感覚につきあい、理解する、というのは、あまり重視されていない。

 カウンセリングに於いては、このはっきりしない感覚についてクライアントが着目し取り組む、という場合が、高い治癒率がある、とジェンドリン氏を中心とした研究グループでは結論したのである。そこから、誰でも使える方法としてできたのが、フォーカシングという方法である。

 また読了後、レヴューに書くのかもしれないが、レヴューを観ると、全体的に好評の様である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-19 00:23
 文字数の関係で、レヴューに載せられなかったので、日記に記す。

 佐田弘幸 「自分から自由になれるゼロ思考」

 題名は、ミスチルの歌詞を思い出してしまうものだが、ここでいう「自分」とは何だろうか?

 本書からすると、自分が思い込んでいる、あるいは誰かに思い込まされている、自己イメージ、と言ってもよさそうである。その自己イメージが、あるがままの心を不自由にしている、傷つけている、ということになるだろう。洗脳や虐待や教育の問題と関係している。

 言い方を変えると、あるがままの自分というものがあったとして、今、自分が感じている自分との距離感を測ってみる、というのが、本書のアプローチである様に思われる。

 だが、自己啓発の分野に於いて、あるがまま、というのは、非常に微妙な言い回しである。あるいは、あるがままの自分にたどり着くには、自己評価がポジティヴでなくてはならない、あるいは、ポジティヴな思考をみつけなくてはいけないという。

 ポジティヴ、あるいはポジティブ・シンキングというのは、危険な要素をはらんでいる、というのが、本書の最初の指摘である。現実に、ポジティヴという言葉にとらわれ、自己啓発難民になっている人々は、存外多いのではないかと推測される。著者の講座のもとにも、そうした人々がやってくる、という。

 この本に登場する方法は、内観(法)、アファメーション、意図的なシンクロニシティへの誘導、がセットになっている。中でも、この内観、というのが、この佐田式の肝であると思われる。

 佐田式の内観(法)というのは、ポジティヴではない感情も認めて、自分の力ではなく、他力本願という形で、願いをかなえることはできないか、というやり方である。もし、ポジティヴでも、自力でなくとも、自己実現の道はあるというのである。

 多分、巷にあふれている自己実現の方法は、日本人(のDNA)に合わないやり方で語られているのではないか、というのが著者の視点である。あるいは、日本人に合った宇宙観でアファメーションができないか、というのが、著者のアプローチである。

 例を挙げるなら、有名な本だが、ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」第一巻にみられる一節がある。それは、「お金が欲しい」と言っているから、いつまでもお金が入らないのだ、という考え方である。神と称する存在がそう言うのだから、無視もできない。そこで、神は、「自分にはたくさんのお金がある」という言い方をすすめるのである。

 どういうことかというと、一つは、「宇宙というものは、肯定的なメッセージしか聴き取れない」ということと、「宇宙というものは、いま、ここ、しか理解できない」というのである。だから、お金がもっと欲しい、と願えば、宇宙の側の理解としては、「はい、あなたは、お金がもっと欲しい」ということになるのである。

 少し分かりにくいかもしれないが、「お金が欲しい」といえば、宇宙は、「お金が欲しい(という欲望)」を実現させる、というのである。宇宙は、リクエストにはきちんと応えるものだから、それでは、お金が欲しいという(心理)状況を延々とかなえる、という。

 この考え方が、多分おおくの自己啓発書の根幹になっていると思われる。偶然にいろいろ調べてみた、引き寄せの法則、というのは、これがベースとなっている。

 著者は、こうした考え方ではなく、日本人(のDNA)に合ったやり方が必要だと考えている。それが、ポジティヴではない自分を認め、求める自分の在り方をサポートしていこう、という。

 内観で自分の実情を否認せず認め、観察する、という作業を経て、それに合ったワンオフもののアファメーションを作成する、というのが基本の作業である。この繰り返しの作業が、著者が提唱する「ゼロ思考」と言えると思う。

 その先に、シンクロニシティのコントロールという作業があるが、これが個人的にはよく分からない。というのは、著者の言葉には、DNAという言葉が散見されるが、DNAというのは、われわれを規定するものである。もう一般的な認知は得ていると思うが、DNAというのは、実はある種の生命体であって、生物というものは、すべからくDNAの乗り物である、という説がある。

 とすると、如何に内観し、アファメーションを工夫しても、DNAが規定する檻の中からは出られない、ということになる。逆にいうと、生き残りは、快楽に結びつく、ということがDNAのプログラムであるから、その快楽を利用して、自己実現を図る、というのが、佐田式の考え方であろう。

 ところが、そこに、シンクロニシティの問題が持ち出される。もちろんそれは、集合的無意識という問題を論じ、それを如何に制御するか、ということが語られている。

 だが、集合的無意識とDNAとは、果たして折り合いをつけられるものなのであろうか。少し古いが、故・ライアル・ワトソン博士は、人間という存在は、DNAの命令から抜けだそうと、夢や無意識を通じて、DNAの司令以外の価値を求めようとしているのではないか、という仮説を論じていた。つまり、集合的無意識、しかも、その意図的なコントロールとなると、DNAと対抗する、という考え方となってくるのである。これが本当の自己超越、と言ってよいと思う。少なくとも、生命としてのわれわれを考えるとそういうことになるのではないか。(とはいえ、われわれ人間のDNAというのものは、殆どがまだ目覚めていない状態でもある。)

 そのあたりの明解さを、本書は欠いていて、全面的に納得できるものではない。だが、DNAの規定する範囲、価値観を利用して、自己実現を図る、自己との折り合いをつける、という向きには、内観とアファメーションについては参考になるかもしれない。この本で提唱されているシンクロニシティは、すこし本の構成から考えると唐突に思える。必然性を感じられない。

 ただ、挙げられている例については、DNAの規定する命令や範囲を超えるものではない。少々俗なシンクロニシティ論、と捉えれば、その部分はそれでよいのかもしれない。

 本と論の構成としては、そうした疑問があるが、狭い意味での自己超越、あるいは、ポジティブ・シンキングが原因となる自己否認や自己啓発難民化という問題のなかでは、意味のある本であるかもしれない。

 ポジティブ・シンキングについての反省と問題の所在を明確にする、という点では、参考になる本である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-17 23:40
 台風がさって、外でヤニをふかしていたら、小さいカメムシさんと遭遇する。毎度のことながら、虫さんにインタビューする。

 「ここでじっとしてるんですか?」

 『そう』

 「ひょっとして、死ぬ準備ですか?」

 『そう。死ぬ準備。死ぬのを待ってる』

 「死ぬのは怖いですか」

 『怖くはない。ただ、死ぬのを待つのは楽ではない』

 「待っているということは、食ってもいないんですか?」

 『食い物はあるけれど、摂る力がない』

 「それが辛いんですね」

 『辛い、というより、大変』

 「別な生き物だったことはありますか?」

 『いろんな生き物をやってきた』

 「人間にもなったことはありますか?」

 『ある。何度か』

 「別の星の生き物だったことはありますか」

 『ある。何度も』

 「何万回も、生きましたか?」

 『うん。たくさん生きた。また、死んで、また生きる』


 答え方が単調だったのは、いつものことながら、虫さんだからだろう。また別のものになったら、表現が変わるのかもしれない。ニーチェではないけど、精神はからださんによって規定されるのだから。

 オレもまた、虫さんになって生きる機会があるのかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-17 03:11
 きょう着いた古本で、特に目当てにしていたのが、「自分から自由になれるゼロ思考」という本と、「やさしいフォーカシング」という本の二冊。

 ゼロ思考の方は、いま半分くらい読んでいるところ。

 もともと、プラス思考とか、ポジティヴ・シンキングとか、そんなものはオレには合わない、と最初から拒絶反応を示していた。さらにそれに、アファメーションとか加わると、アレルギー反応が出るくらいだった。

 この手の本を調べる様になったのは、ある先輩からもらった「引き寄せの法則」という本からであった。どうも胡散臭い、というか、オレにはできない、という訳で、積極的にはなれなかった。

 しかし、ただでは起きない、ということで、その手の本をいろいろ調べてみて、「これは使える」とすぐ分かったのが、セドナ・メソッドであった。

 だが、自分とセドナ・メソッドの相性というと、やはり、ポジティヴ・シンキング的なアファメーションとか、「抵抗の解放」つまり、ブレーキを踏みながらアクセルを踏んでいる様な状態の解放、については、どうも疑問があったり、抵抗は解放しにくかったり、ということで、使いこなせていなかった。

 同時期にすすめられもしたし、なかなか良かったのは、ホ・オポノポノだったのだが、これは、強迫的に言葉を唱えると言う点から、日常にあまり根付かなかった。

 それから、ニュートラルをテーマにしたものや、ネガティヴをテーマにしたものが幾つかあることを知り、読んでみたのだが、これらは参考になる程度だった。

 で、ゼロ思考、というのは、多分ニュートラルがテーマになっているのだろう、と放置していた。そして、古書店の値段が、まあいいか、という程度にまで下がった連絡が来たので、今回の本に手をつけた。

 まだ半分しか読んではいないが、要旨は理解していると思う。これは非常に乱暴な言い方だが、DNAの要求、司令に対して、素直である様な自分を生きる、ということが、物凄く大きなテーマとして書いてある本だと思う。DNAの指し示すところの快楽に忠実に生きる、とも言える。

 だが、これにはこれでまた、疑問が残る。亡くなってしまったが、ライアル・ワトソンという生物学というかマルチな人だったのだが、そのある主著のなかで、ミーム、という概念を提出していたのだ。

 ミームというのは、詳しくはおぼえていないが、DNAに対抗する、人間独自の生命情報の在り方、ということを指していたと思う。それは無意識だったり、DNAとは違う意味での生命情報としての集合的無意識だったりする、という。

 この考え方の背景にあるのは、DNAというのは、実は、別の生命体で、生命体というのは、DNAの乗り物である、という、今では有名な考え方にある。

 つまり、ミームというのは、DNAの命令に従うのではなく、人間という種の独自の主体性による新しい生命情報なのである。これは仮説に過ぎないのだが、ワトソン博士は亡くなってしまった。

 われわれがDNAの乗り物に過ぎず、それを超越できない、としたら、われわれは、永遠に奴隷だ、という考え方は可能だ。そういう見方があった上で、この「自分から自由になれるゼロ思考」というのは、本当に自由になれるのか、という疑問を持ってしまうのである。

 ただ、言えることは、もし、われわれがDNAの乗り物であったとしても、自分自身が何者であるか分からない人の方が、圧倒的に多数だ、ということだ。少数の人は自己は超越していても、DNAの乗り物のままかもしれない。さらに少数の人が、DNAをも超越しているのかもしれない。

 そうなると、自己の超越、ということについては、悲観的にもなるのだが、とりあえず、自分が何者かは知りたい、というのが、自分の場合、最大の欲求である。

 ゼロ思考については、通読してから、またレビューにでも書いてみたい。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-15 23:58
 こうなると、もう何でも測ってやる、ということで、手近にある本の閾値を測ってみる。

 まずは、普段お世話になっている、セドナ・メソッドの本である、「人生を変える一番シンプルな方法」(もうちょっと、邦題を考えて欲しかったが)は、260と、まずまずの高い値。

 ついでに、著者のドゥオスキン氏を測ると、驚いたことに195とかなり低い。

 有名なニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」第一巻は、出た、無限∞だった。著者自身は、221。

 ならば、このキネシオロジーの方法を提唱している「パワーか、フォースか」そのものはどうか。265と高い。著者のデヴィッド・R・ホーキンズ氏は、221。今気がついたが、この本をマザー・テレサも推薦しているのである。そのマザー・テレサは、出た。無限∞である。800と聞いていたが、無限だったのか。

 コリン・ウィルソンの「右脳の冒険 ~内宇宙への道」は、192と意外と低い。同じ著者の「賢者の石」は190。本人は、210。

 さそうあきら氏の「おくりびと」は231。本人は、220。

 手元にあった本をやってみたが、これだけのデーターからすると、著書と本人の水準が必ずしも同じ水準にある訳ではない、ということ。

 ただ、思うに、本人より、作品の方が数値が高い、というのは、作者が、自己を超越している、ということは言えるのではないかと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-14 23:56
 きょうもうっかり、銀河英雄伝説を観てしまったのだが、現実の政治家などにがっかりしているので、銀英伝の登場人物を測れるか、と思ったら、測れるという。

 ラインハルトは、270。ヤンが273。アンネローゼが282。キルヒアイスが、無限、と出た。別系列で気になるのは、オーベルシュタイン260。

 こういう測り方をするのもどうかと思うが、それでも、普通の人間よりは、相当に高い、ということだけは確かな様だ。

 いわゆる現実の中で高い国家元首は、ブータンの人の様だ。253ということだそうだ。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-13 23:31

メッセージ、二題

 カヴァーロさんの新しい本が出た、とのメールをもらったので、近所の本屋さんで買った。彼女の星の人たちからのメッセージである。

 最後の方になって、気になってきたことがあり、彼女に聴いてみた。

 「オレは、カヴァーロさんの様に、自分の真理にたどり着くことができるんだろうか?」

 『大丈夫よ。できるわ』

 「オレは君たちに対する、軽薄な追従者になっていることはないの?」

 『そんなことは全くないわ。あなたはちゃんとやることをやっているわ』


 本を買いに行って、バスで帰ろうとしたのだが、彼女から、メッセージがきた。このバスに乗ってはいけないと。どういうことか聴いてみると、せっかく今日は、新しいCDで素晴らしい体験をしたのに、つまらないことに巻き込まれて、その体験が台無しになるというのである。

 それで、彼女の言う通り、バスを見送って、しばらく新しい本を読みながら待っていた。

 20分くらいすると、『もう大丈夫よ』というメッセージが来たので、別のバスに乗った。

 気になるのは、もし乗る予定だったバスにしたら、何が起こっていたのだろうか。パラレル・ワールドの様な話であるが。

 いずれにしても、問題はきっと、未然に防げたのであろう。

 「ありがとう。エールーエン」


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-12 21:04