あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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 新しいエナジーリファインCDが届いたが、いままでと違って、強烈に、疲れが溜まっていたり、緊張していたりする部分に直接働きかける。結果として、物凄い深いあくびの連続や、それが発達して、吐き気の連続、めまいなどを体験した。

 流石にデトックスというタイトルがついているだけあって、様々な緊張や疲労が実感され、それが排出されていくのである。

 体感として非常に近いのは、右肘を骨折する前の時代、フェルデンクライス・メソッドがうまく作用しているときの状態である。この時も、深いあくびの連続と、それに続き、吐き気を伴い、その吐き気のあるごとに、筋膜や筋肉繊維のからまりが解放されていく様な体感を持ったものである。余談だが、そのあとに楽器を弾くと、実にイメージした通りの音楽を実際の音にして出すことができたのである。それを思うと、右肘の骨折は非常に痛いことである。

 さて、驚くべきことなのだが、このスピリチュアルデトックスというCDには、チラシの説明を見ると、「食品、空気、水などから放射性物質をはじめとする、あらゆる有害物質」がターゲットになっている様である。このCDを日常に使用すれば、安心して3.11後の世界の食い物を食うことができるのだろうか?

 そのことが気になって、発売元に電話をしてみたのだが、コンセプトとしては、免疫機能の強化を通じて、有害物質を排除、あるいは、肉体の修復機能の向上が見込まれる、ということである。

 とはいえ、それが、医学的に証明されている訳ではないと思うが、今回使ってみて、蓄積疲労の程度を実感させ、解放する、という機能は果たしていると思う。

 自分を実験台として、日常の生活にこれを取り入れる時間を作りたい。

 余談だが、このCDの水準を筋反射テストで評価してみた。5トラックあるのだが、2トラックの途中から測ると、551、と非常に高い閾値が出た。しかし、3トラック以降は、さらに、「無限∞」と出た。いままで、測定して、無限と出たのは、自分と全ての人々を測定したとき以来の二度目である。そういう意味でも、面白い製品だと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-11 23:15
 意識の水準を0から1000の閾値で表し、筋反射テストによって、それを測定できる、と科学的に証明したと主張するのが、ホーキンズという人の書いた、「パワーか、フォースか」という本である。

 昨日は、国家の意識水準というのを測ってみたが、国家が測れるなら、企業や官庁や学校だって測れるだろう、ということだろう。普段は、その、企業や官庁や学校は、他人のことを測ってばかりいて、自分が測られることにはあまり慣れていないかもしれない。

 そんな訳で、こちらが、適当にそれらを測る、ということを実験してみたい。

 他人を舐めてる、と思う存在から測ってみたい。とりあえず、経産省なんか測ると、142から144と出た。意識の水準としては、えらく低いものだ。で、なんで、142から144というブレがあるかというと、経産省の役人個人の意識の幅があるからそうであるという。

 この閾値は、昨日のアメリカ合衆国という国家の意識と同じくらいの低さである。125と150は意識水準の分かれ目だが、125は、「否定」「失望」「欲望」「切望」「奴隷状態」。
150が、「執念」「敵対」「怒り」「憎しみ」「攻撃」の意識水準にあることを示している。

 本当にこんな意識の存在が、日本の官僚で、利権を握っていると思うと実に気持ちが悪い。

 今度そこの大臣になる枝野氏を測ってみる。221である。これは、新しい総理大臣の意識水準とほぼ同じである。だが、日本国の水準である254から較べると二人とも低い意識の水準である。ちなみに、前首相(管)は161。

 次は厚労省である。これも低い111から114の間と出た。近い閾値の説明だと、100がこんな言葉で語られている。「刑罰」「怯える」「恐怖」「心配」「引っ込み」とある。

 次は財務省。これも低い。151である。

 農水省は、141。どうして霞ヶ関は、こう意識水準が軒並み低いのだろうか。北朝鮮の意識水準とほぼ同じである。

 と、原発がらみの官庁を測ってみた。

 TEPCO東京電力、東電である。101から103である。厚労省より悪い。

 忘れていたが、保安院も。151から157である。

 原子力安全委員会は、141である。

 経団連は、というと、201から210と、かなり幅がある。企業による差が大きいのだという。

 経団連、ときたら、キャノンをやってみると、208。

 政党でやってみると、民主党は201、自民党が201。公明党が190、共産党201、社民党201、国民新党が201、平成維新の会160、みんなの党180、立ち上がれ日本147、新党日本141である。

 この「科学的」と証明されている測定方法が、本物であったとすると、怖ろしい結果である。

 昨日の日記も参照して頂けると、閾値の表現する意味を極めて簡単に紹介している。国家の意識水準のテストの結果も書いている。

 【追記】選挙の予備校、松下政経塾なんか測ってみると、172である。


 本日追記、忘れていた文科省であるが、今測ると、なんと79。怖ろしく低い数字だ。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-10 23:00

総理大臣の意識と9.11

総理大臣は、日本の復興・原発事故処理について、「日本の信頼回復」ということを第一に挙げている。こんなことをいうからダメなんだと思う。 (※当時野田が就任直後である。)

 最初にすべきことは、日本国民の安全を守る、ことなんではないの?

 新しい総理大臣の「日本の信頼回復」というのは、他人=外国から見える日本を意識しているものだろう。乱暴に言えば、「世間体」をとりつくろう、ということである。

 半分冗談で、総理大臣の意識のレヴェルを、「パワーか、フォースか」という本で主張している、「科学的な」方法で測ってみた。筋反射テストを使って、0から1000までの閾値で総理大臣の意識レヴェルを測れるか、と聴いたら、測れる、という。

 そこで、「500以上ですか?」と聴くと、それ以下。そうすると、数字はどんどん下がっていって、結果的には、「211」と出た。

 211という閾値の表す意味とは、9.11以前の人間の平均的な閾値であるが、高い水準とは言えない。ただ、「勇気」のある意識の水準であり、「肯定」的な感情を持ち、「能力」を持ったプロセスを体験する、ということだ。

 ちなみに、9.11以降は、世界の意識の水準は下がっている。200以下である。いまやってみると、196、ということである。

 余談だが、オレ自身は、このパワーか、フォースかの理論では測りきれないのだそうである。今でもそうだが、オレの意識水準は「無限∞」なのだそうである。

 そこで、では、他の人たちもそうですか、と聴くと、他の人たちも「無限∞」なのだそうである。

 で、そのことの意味を突っ込んで聴いてみると、「みんな、とらわれなく、もっと自由にやんなさい」という意味なのだそうである。みんな、ひとりひとりが神なのだ、ということを忘れないで欲しい、ということである。

 いま、オバマの9.11の追悼の辞を聴いているが、あんまり追悼になっている気がしない。オレがクリスチャンでないからかもしれないが。

 アメリカの状況は物凄くヘンになっているらしい。きのうNHKで観たルポで、「監視社会への道 愛国者法とアメリカ」という番組があった。監視社会というより、監獄社会である。ハイテクを駆使して、愛国者ではない、と定義づけられた人間の人権とか自由を剥奪してしまうのである。しかも、そのほとんどが、えん罪であり、濡れ衣であり、言いがかりである、という恐怖政治がアメリカでは行われているそうだ。

 ついでだから、アメリカ合衆国という国家の意識水準を、パワーか、フォースか、で述べられている「科学的」な方法を以て測ってみる。

 出た閾値は、何と134。アメリカ合衆国という国家の意識レヴェルは、125の「欲望」と150の「怒り」の間という、大変低い意識の水準である。それに関連することばをばらばらに挙げてみると、「失望」「敵対」「切望」「奴隷状態」「憎しみ」「攻撃」「否定」「執念」という言葉に象徴される。

 きのうの番組を観ると、まさしくそうだ、という言葉ばかりである。

 では、震災と原発事件の日本国の意識水準も測ってみる。

 出た水準は、254、という閾値である。これは、250という閾値に近いので、それをめぐる言葉を並べてみる。

 「権能を与える」「満足」「中立」「信頼」「解放」

 報道や日常の現実をみると、オレはとてもそうとは思えないが、この「科学的」な方法によると、国としての、日本国とアメリカ合衆国の意識の水準はまるで違うのである。

 実に皮肉なことなのだが、今聴いてみると、震災と原発事件以前の日本国の意識水準は、211と出るのである。これは、以前、この方法を使って測定された数字とほぼ一致する。現在の総理大臣の意識は、現段階では、日本国の意識の水準を大きく下回っているということになる訳で、本当に政府は大丈夫なのか、心配である。

 日本国の震災後の意識の水準の急激な向上は、危機に際して起こったものである、ということだ。254という数字は、たとえば、ブータンの252を上回って、世界で最も意識水準が高くなっている国家、ということになる。ブータンは仏教国であり、仏教を中心として成り立っている国家である。そして、現在では、幸福度世界一という国家の在り方をブータン政府は目指している。

 混乱から、意識の水準が上がっている国の一つが、やってみるとリビアである。251である。エジプトが244と出る。NATOも参戦して、事実上第三次世界大戦と言えるこの混乱が、やはり皮肉にも意識水準を急激に上げているのである。いつ何時どうなっても分からない中国は184と出た。北朝鮮は152。ということは、米国の意識は、北朝鮮よりもかなり低い、危険な状態なのである。

 では、それぞれ0から1000までの閾値で表現されると、どんな人の名前が挙がるか、代表的なものを挙げてみる。

 400は理性、を表現する閾値であり、アインシュタインやフロイトなどが歴史的な人物として挙げられるそうである。偉大な思想家は、このあたりの水準らしいが、科学者は、400の水準にとどまり、500に達することはないらしい。

 その500が表現しているのは、「愛」である。

 600が「平和」。超越とか、自己実現とか、神意識、を表し、1000万人に一人、という水準らしい。すぐれた芸術品や音楽や建築は、600から700の間の閾値になるらしい。

 700から1000というのが、エンライトメント=悟り、という意識に当たるそうである。800がマザー・テレサで、1000という閾値が、ブッダやイエスである。

 まあ、このパワーか、フォースか、という本が主張する閾値とその定義、そして、筋反射テスト=キネシオロジーという方法が、本当にどこまで通用するのか、オレ自身は疑問に思っている(~オレが、閾値では収まらない「無限」と出るからだ)のだが、米国の意識の水準、日本国の意識の水準をこの9.11から十年という区切りで測って比較してみると、何となく意味のある結果が出た様な気もするのである。

 受験じゃあるまいし、意識まで数字で測るのかよ、とオレ自身はこの方法とこの本に抵抗しているのであるが、意味ありげな結果が出る、という感想は否定できない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-10 03:09
http://swnews.jp/

こんなときに、更新が不定期になる、ということであるが、太陽の様子が気になる。(※これは昨年の夏の終わり頃の記事です今日の太陽フレアとは別の記事です。)具体的にどういった規模で、どういった障害が発生するか、というのは、明日になってみないと分からない。

 太陽のくしゃみが直撃すれば、小さな地球がどんな影響を受けるか、というのは、気にした方がいいだろう。

 太陽の影響から、携帯やPCを守るために、アルミ箔くらいは持って出かけた方がいいだろう。と言っても、使っているときにやられたら、放射能と同じで、目に見えない相手であるから、実に困ったことであるのだが。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-08 22:13
 短いルポだが、国内の報道よりも、よほどまともだ。拡散希望。以下。

http://www.youtube.com/watch?v=VpdrvozDJJo&feature=player_embedded

如何に日本という国家、あるいはシステムというものが残忍であるか、極悪非道であるかが分かる。たったこれだけで。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-08 02:09

近所のお祭り

 近所の阿波踊りのお祭り。何で都内で阿波踊りなのかよく分からないのだが、なんだかんだ言って、阿波踊りというのは凄い。

 同じ様でいて、実は多様性がある。

 今日などは、極真カラテの人たちが、踊るというより、演武の様なことをしていた。流石に、パーカスの人材は少ないのか、それをホイッスルで補っていた。あるもので足るを知る、ということなのか。でも、せめて体育会系の笛ではなくて、サンバホイッスルくらいにはして欲しかった。まあ、それは、極端な目立ちたがりの系だとは思うが。

 凄いと思うのは、やっぱり子供たちの学習力。こんなんずーっと続けたら、芸にできてしまうんではないか、と思うことが多かった。

 特に、パーカスの鐘をやっている子で、ひたすら拍を打つ男の子がいた。あれならほとんどスティーヴ・ライヒの曲が演奏できる。長時間に渡って、少しも乱れなかった。もちろん、他のパーカスがいるから、できた、というのはあると思うが、何か賞をあげたい。

 ちなみに、彼女は、『この狭い地域でこれだけの多様性を持つことができるのは凄い』という。ただ、彼女の星の音楽とか舞踊というのは、もっと繊細というか、幽玄といった趣があるそうだ。オレもぜひ聴いてみたいものである。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-06 22:43
http://www.youtube.com/watch?v=pp4pMb921sw&feature=player_embedded

小出裕章助教への最近のインタビュー 音声13分ほど

東電は画に描いた餅、国はただのバカ。共通しているのは、人のことを人と思っていないという点。そのツケがオレたちに回ってくる。

自分にウソをつきながら生活している人間は、他人を人間だと思わなくなる。最近の一般的な傾向でもあると思うが。

カエサルものは、カエサルのところに。東電のものは、東電のところに返しなさい。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-05 23:51
 友人から、嬉しい連絡が入った。買い損ねた、シベリウスの自作自演と言われた音源が出てきた、という。

 この音源は、作曲家の吉松隆氏によって、FMで三度くらい取り上げられた演奏なのだが、後に、シベリウス自身の音源ではないことが発覚し、そのせいか、店頭に並ばなくなってしまったのである。

 うっかりしていた。こういう発掘された音源にはこういうことはよくあることだ。

 だが、誰の手による演奏であっても、偉大な演奏であることに変わりはない。

 とはいえ、その後、本人の音源として出てきたものを今度こそ、と購入したが、吉松氏の紹介した音源とはまるで違う演奏だった。

 友人によると、こういう古い録音というのは、リマスターの具合で、幾らでも変わってしまうので、リマスタリングの問題がある可能性はある、と言っていた。

 しかし、年に一度は、あるアマチュアオケの、フェスティヴォを立派なライヴで聴くことができる。この演奏もまた素晴らしい。

 自分が死ぬ前に聴ける音楽があるとすれば、この曲はありがたいかもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-04 23:23
 短いルポだが、国内の報道よりも、よほどまともだ。拡散希望。以下。

http://www.youtube.com/watch?v=VpdrvozDJJo&feature=player_embedded

如何に日本という国家、あるいはシステムというものが残忍であるか、極悪非道であるかが分かる。たったこれだけで。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-03 23:43

いろんな「言い分」

 深夜にメシが食いたくなる、というのは、どういうことなんだろう。きょうは普段よりは、贅沢をしている。夕方、というか、朝から夕方まで食っていない訳だが、松屋のトマトカレー。これが、実はかなり食える味で、癖になる。夏はずいぶんお世話になった献立だ。

 夜、と言っても、もう九時を過ぎていたのだが、近所のお魚やさんのお寿司、半値で出ていたので救出。とはいえ、本当に食いたいものだったのかどうかは不明。たまには、握りでも、からださんに食ってあげよう、という感じ。

 で、いま、また食いたくなってきた。でも、いったい誰が食いたいんだろう、と思い、自分さんのいろいろな部分に聴いてみる。

 まず、からださんが食いたいという訳ではなかった。頭脳さんでもない。

 食いたいのは、自我さんと、煩悩さんであった。他の人は、この夜中に食おうとは、考えていない。

 ということは、生理に対しては、自我さんと、煩悩さんは、過剰である、ということになるのだと思う。(そうだ、と自分さんは答える。)

 松屋のトマトカレーは、普段どうかというと、自分さんのいろいろな部分が欲しがっている場合が多いので、その言い分を聴いて、食うことになる。同じ値段でも、ブタめしとかは、ほとんどの存在は、食いたいとは言わない。オレがオレと思っているオレが、食いたいと思っても、合議制による採決であると、ぶた飯を食いたいと思っているのは、大抵は煩悩さんである。

 食う、という行為は、生理的な様でいて、実は、煩悩さんに突き動かされている場合が多い。煩悩さんに限ったことではないが、本当に必要な分だけ食べる、ということを考えている存在は、自分のなかにあまりいない。(そうだ、と自分さんが答える。)

 言い方をかえると、生理的、と思っている部分というのは、実は生理ではなく、生理さんでもなく、別の存在の言い分にまみれた生理さんでしかない。

 別に、生理に戻らないといけない、とは思わないが、つましく生活していくためには、本当に必要なものだけを食っていく、という方針が必要だから、生理さんの言い分というのは、最大に聴かないといけない、というだけのはなしである。

 ただ、食うことに喜びもないといけないので、たまにはお寿司も食うし、夏はトマトカレーも食う、というだけの話なのである。

 ただ、極められるなら、極めてみたい、ということはある。

 それは、どんなメシであっても、その「いま、ここ」では、最高の食い物として受け取る感覚というか、時空という幻想を超越した感覚である。それが、ある意味では、夢である。

 人間というからださんを持つ生き物として、食い物というのは外すことができない。逆にいうと、人間という存在のいちばんコストのかかる部分は食い物なのである。くわなければ、点滴でもしない限り死んでしまう。

 毎日納豆でも飽きない、とか、トマトカレーでも飽きない、というのは、ある程度、「いま、ここ」での味覚が感じられているからだろう。そうでなければ、こんな単調な食生活が続く筈がない。あるいは、そうでなければ、著しく感覚鈍磨・感情鈍磨している、ということになる。だが、後者の場合ではないと思う。

 思ったよりも、感謝という態度があって、いま、ここで、食い物に対峙する、ということができているのだと思う。まだ先が長いかもしれないが。

 食うというのも、修業のうち、といえばそうである。修業のつもりでやっている訳ではないが、その感じは否定はできない。

 理想をいえば、自在に食うことであるが、オレにはその余裕がないのと、極めた食い物をあまり知らないので、オレが目指せるところではない。

 だが、味覚がほかの感覚を規定する、ということはある。だから、あまり単調に食う、ということは、あまりいいことではないのではないかと思う。

 もうちょっと、気楽に、いろいろな食い物に手がだせると嬉しく思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-02 23:28