あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

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 日曜は、排水溝清掃の日だった。業者さんに来てもらい、団地で一斉に全部の部屋の排水溝まわりを清掃してもらうという日だ。

 原則として、全ての部屋をやる、あるいは、そうでないと意味がないのだが、入居してから、全部屋が清掃された、という話を一度も聴いたことがない。だが、どこかで詰まれば、一棟全てに影響が出る可能性があるので、年に一度のこの日は、出かけることができない。

 その清掃業者のサービスの一つとして、団地の廊下の隅にある排水の側溝と排水溝が、高圧をかけた水で掃除されるのがいつものことだが、さっき見たら、妙なことに気がついた。

 いちばん雨などの排水が集まる排水溝の清掃が、あまり入念とはいえない様子であった。これが物凄く気になる。

 というのは、放射性物質の溜まりやすいところは、その排水溝であり、今回の原発事件で啓蒙されている通り、マスク着用、服もできれば百円ショップで売られている様な、ビニールの衣類を着用の上、排水溝を入念に清掃することが必要だ、と呼びかけられている。(とはいえ、清掃すれば、今度は地面や路肩の排水溝に集まるし、その先は、また、放射性物質の線量が高い汚泥を生むことになる。)

 実は、オレは、先日の児玉龍彦教授の国会での参考人としての発言などを聴いて、福島で除洗の人足になるか、と真面目に考えているのである。

 オレみたいなB級市民で、世の中のお役に立てることといったら、これくらいだろう、と思っていた。原発事件の当初は、原発の作業員に志願しようとすら思っていたのだが、状況を調べると、これでは、オレが行っても、邪魔になるだけだ、と結論して、止めた。

 しかし、まだ、除洗となると、かなりの広域に手をつける必要がある。福島の現地の人たちだけでは、到底頭数が足りないであろう。被爆量が増えるのは、覚悟の上だが、オレはインディゴらしいので、DNAは放射線に強い、新型のものである様だ。

 だが、ちょっと考えた。今回、団地の排水溝の除洗があまりされていない、というのは、業者の責任者が、社員、あるいはそれに準ずる現場の人たちに、「あまり排水溝を水圧をかけて洗うのは危険である」と言っているのかもしれない。キレイに高水圧で洗われた側溝部分と、排水溝の汚れ具合の違いは、一目で分かる。

 ということは、都内の排水溝の除洗だけで、かなり危険だ、と専門業者は判断しているのかもしれない。これはあくまで憶測であるが。

 もう一つ、重大な発言がある。それは、やはり国会で参考人として招致された小出助教によれば、「除洗ということは、そもそも不可能である」と重ねて発言していることである。

 小出助教によれば、子供たちが過ごす場所は、入念に除洗する必要があるが、田畑や森や林や草原や牧草地を除洗することは、不可能であり、田畑にそのようなことをすれば、田畑は命を失う、というのである。

 それに対して、児玉教授は、南相馬で線量の計測、並びに、除洗活動を続けている、というし、やはり参考人として発言した武田邦彦教授によれば、除洗は可能だ、というのである。

 原発関連の専門家の発言というのは、ウソが多い、ということは、現在では多くの人が理解している訳だが、そうではなく、信頼できそうな専門家というのは、小出氏、児玉氏、武田氏、の三人くらいしかいない。少なくとも、特にネット上、あるいは、ミニコミを通じて発言を続けているのは、この三人しかいない。

 ところが、この三者の除洗に関する結論は、三者ともまるで違うのだ。小出氏が情報としているのは、国と東電の発表が正しければ、という条件付きの分析であり、その発言は、ある意味で厳密主義と子供に対する人道主義の観点からする、発言である。

 児玉氏については、助教である小出氏と対照的に、東大のアイソトープセンターというところの責任者であり、南相馬という現場に週末出向いて、細かい現場の状況から考えて発言している人である。武田氏については、本人の言葉を借りると、「日本のおとうさん、の立場として、考える」とどうすべきか、という観点から発言しているのである。

 その様な訳で、信用できそうな三者の、除洗についての結論がまるで違うのに、困った。オレが、じゃあ、オレがやる、とか思ってしまうから、困ったのだが。

 そうなると、もう最終的には、信条の違いと、自分のカンから判断することしかできなくなる。

 きょうの、排水溝清掃の細部の状況から憶測すると、どうも、都内すら除洗作業というのは、そんなに甘いものではないらしい、ということと、誰も責任を取りたがらないでいる、ということが言えそうなのである。

 オレはこんなに真面目に考えているのに、国は、経産省や農水省は、電話で担当者の話を聴いたり、ネットで情報を見たりする限り、まるでバカで、責任を取るつもりなどないことは明白である。その経産省の大臣であった人物が首相になりそうだ、などという報道があるが、これは全く許すことのできない事態である。

 こんな状況で、よく革命が起こらないな、暴動も起こらないな、とオレは全く不思議に思い、呆れている。忙しいフリをして、他人事にしている人が多すぎるのではないか、と、オレには全く理解のできない状況である。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-01 23:34
 古くからお世話になっている近所の先輩と会った。先輩となかなか最近会えなかったのは、先輩が「疑似ぜんそく」という病気にかかってしまい、電話で話をするのも辛そうな時期が続いたからである。

 二人ともパイプを吸うのであるが、パイプは大丈夫なのだという。パイプや葉巻の場合は、口のなかに入れるだけで、肺や気管に吸い込むということがないからである。

 という訳で、久々に煙りを交えたのであるが、先輩と吸うのは格別である。

 ポメラの自慢をして、それから、エックハルト・トールのStillness Speaksをみていただいたのだが、OSHOのシリーズと似通った内容だ、という証言をいただいた。

 OSHOはまだ一冊も読んでいないのだが、とりあえず、トールの言う通り、ゆっくりとStillness Speaksを読んでみようと思う。

 トールのこの本についてのレヴューを比較的最近アップしたので、よかったら、ご覧頂きたい。邦題は、どうしてこんな邦題にしたのか不思議であるが、「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」というものである。

 以前のエックハルト・トールの翻訳は、監修者として飯田史彦氏という人が絡んでおり、日本人に誤解を与えないように、などという理由で、翻訳されていない部分があったりする様だが、「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」については、そうした余計な手が入っておらず、却って読む気になったのである。

 飯田氏の問題は、トールの主著の一つであろう、Power of Nowに強くあり、以前、フェルデンクライス・メソッドの先生からこの邦訳である、「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」という本頂いたのだが、この監修の前文を見るだけで、言い訳が多くて、本文を読むのがイヤになってしまった。この本については、飯田氏の手の入っていない、再邦訳を期待したい。

 嫌な言い方をすると、飯田氏の監修というのは、著者に対する厚意のつもりであろうが、それはむしろ冒涜であり、読者の力を信頼していないのではないか、という印象がある。

 Amazonのレビューをみると、飯田氏は、どこの派閥や宗教にも属していない、ということを売りにしている様だが、そのこと自体が、一つの立場を主張していることになる。

 元来、人間というのは、何者でもないものになる、というのは困難なことであり、それこそ、Stillness Speaks的にいえば、人間の行き着く意識の最終的な在り方は、時空という幻想をはなれて、「いま、ここ」をただ観る、ということになる筈である。飯田氏は、その監修という行為によって、トールが本来主張していることをねじ曲げていると考える方が真っ当であろう。

 その様な訳で、残念ながら、Power of Nowに触れる気がしない。言葉ができれば、原書を読みたいものだが、残念ながら、自分にはその能力がない。トール氏ではなく、飯田氏の作品という視点から読めば、そういうものとして読めるかもしれないが、ならば、あまり言い訳はしないで欲しいものである。

 翻訳者というのは、別の仕事でいえば、音楽の指揮者の様なものである。ちょうど今、アバドがブルックナーをやっているが、アバドがブルックナー?というだけで、先入観を持ってしまうものだ。翻訳もそうである。

 オレ自身が、彼女の言葉やイメージを、日本語にしているところだから、翻訳者というものの立場というものを分かる気がする。オレとしては、彼女の伝えてくれることに全幅の信頼をもってやることがいちばん大切だと思っている。それに、間違っているという点については、ちゃんと具体的に、ここはこうして、という具体的なアドバイスがあるので、それで腹をくくっている。

 発信者に対する信頼、読者に対する信頼、というのものが、翻訳者にとって最も重要な魂の在り方ではないかと思う。


   2011年3月11日以降の日記より
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by bwv1001 | 2012-03-01 00:47