あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001

空洞

 ウチは怖ろしく散らかっている。おおかたは紙の類で、あとは、昔はボロと読んだ着つぶした服とか下着の類である。

 紙の類は、「記憶」という意味がある。記憶で生きているから、紙が捨てられないのだと思う。私は観ていないが、図書館戦争という作品では、人間は死ぬと本になる、という設定の世界観である。人間は、記憶でできている、としたら、それは正しい設定である。

 ボロ、も記憶である。昔の自分が存在する。

 だが、ボロには、ゴミとするには、制度的な問題があって、一人暮らしの自分では、そもそも、指定された時間の範囲内に、回収場所に持ち込めないのだ。これは完全に制度の不備である。

 で、先日、もういいや、と思い、ボロの下着とか靴下の類を、燃えるゴミの中に混ぜて出した。今週もやる。そうしないと、この空間を防衛できない。フリマの様子をみて、そう思ったから、下着とタートルネックも新しいのを買ってきた。もう着つぶしたのは捨てる。リサイクル、などという標語を押しつけられた上、シンプルに生活せよ、というのは、そもそもおかしい。

 もらった服、というのが、これまた捨てられない。でも、きょう、フリーマーケットの状況を観察して、使うもの以外は捨てようと思った。

 記憶というのは、関係性によって確かめあう、という人間のやり方に結びついているのだが、自分が、関係性のための空洞であるとしたら、捨ててもよいのではないか、という気になってきた。

 空洞という考え方は、実はそんなに悪くない様な気がする。むかしの自分がなりたかったもの、というと、敢えてことばにするならば、「何者でもないものになる」ということであった。何者でもない、というのは、なかなか難しいことなのだが、空洞としての自分、というものをすこし考えてみたいと思う。

 空洞だからこそ、外見を大事にする、とか、部屋を大事にする、とか、そういう発想が出てくる様な気がする。

 「何者でもないものである」ためには、実に思想というものが必要だった。そのとき、なにものかで、あって、また、そのときは、なにものかである、たとえば、空気と水面の接点の在り方の様なものだ。

 そこに、「いま、ここで」という感覚があれば、そこに、空洞としての様式が成立する。「いま、ここで」という意味では。

 さらに、「考えるな。見よ」ということが加われば、それだけで充分であろう。そこ、ここ、で楽しみをみいだす。見ているものが、自分である。それでよい。

 空洞は共感できるのかもしれないが、その共感は、空洞であるが故の借り物の感情なのかもしれない。だが、そこに、風が吹くようにあれば、そこに風があることを感じられる。

 ことばが足りないが、決して悪い感覚ではないと思う。

 記憶の通り道、記憶として吹く風は、空洞があるからこそ、吹く風である。記憶を定着させることは、必ずしも必要ではない。むしろ、定着が執着になることが怖ろしい。それは不幸である。

 空洞があって、うまれるのは、多くは音の世界である。音はうまれては去ってゆくものである。それを追うのではなく、「そのままにする」ということが、音の性格である。

 自分が音で在りたいのか、空洞で在りたいのか、そこは難しいところであるが、「異なるものの接点にこそ、魂の座がある」というノヴァーリスのことばが、そのこたえになっているかもしれない。


 2010年の冬の日記より
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# by bwv1001 | 2011-09-02 22:56