あるクラリオン星人のと対話


by bwv1001
 3.11が、震災というより原発事件の始まりとして感じられる様になってしまったこの一年であった。あすは近所のデモに参加してから、日比谷のデモに参加しようと思っている。体調が許せば。

 いま、その3.11の日のあるオケのドキュメントを観た。自分は、その演奏会ではないが、その夜、仲間の出演する演奏会に出席していた。少し、その日のことを振り返ってみたい。まるで、きのうのことの様に細部にわたって記憶がある。

 昨年の3月11日の昼は、新宿にいろいろと用足しに出ていた。

 ある時、ヘンな感じがあり、用足しを途中で繰り上げてしまった。そして、いつもの様に、大江戸線で練馬に戻った。

 そして、地上出口のところにある横断歩道で地震が起こった。

 とにかく、千川通りの建物が本当に揺れていた。ガラスが落ちて来るのが、想像するに怖ろしく、とにかく、千川通りの真ん中に居座った。周囲の人たちも、ガラスのことを一番怖れているのか、ほとんどの人たちは、通りの真ん中に集まろうとしていた。

 その時である。そのすぐ側の保育所から、保母さんたちか赤ちゃんを抱えて出てきてしまったのである。耐震補強がしっかりされている保育所だったのに。

 それで覚悟を決めた。これでオレの今生は終わりかもしれない、と思った。

 長い揺れだったが、これで終わりになることはなかった。

 とにかく、近くのお世話になっている福祉施設へ向かった。

 不思議な光景だった。いつもより利用者が多い、という感じがしたが、一人一人の前に、紅茶が用意されていた。多分、気を落ち着けるための、職員さんたちの配慮であろう。

 とにかく情報が欲しかった。施設のテレビがついていたので、各地の震度などの情報はすぐ手に入った。

 最初の一発を食らった瞬間は、縦揺れではなかったので、震源が東京ではないことは感じていた。だが、どこがやられたのかは、このテレビ放送で初めて知った。

 どうしてそこにカメラがあったのかは分からないが、田畑が、街が津波にあっけなくのみ込まれていく映像を観た。そのあっけなさが却って残酷に感じられた。

 この日はある約束があった。合唱団のメンバーで、ヴァイオリンもやっている仲間の、大学生としては最後の演奏会が、ここ、練馬で行われることになっていた。もちろん、参加する約束をしていた。

 だが、気になって、練馬文化センターに電話を入れてみた。すると、物凄いノイズで、「現在、回線が繋がりにくくなっております」とのアナウンスが繰り返された。

 近くである、ということもあって、歩いて、ホールに確認に行った。係の人に聞くと、「どうもやるみたいですよ」と言った。

 夜の会だから、まだずいぶん時間があった。もう一度施設に戻ったが、何度か、大きな予震がきた。

 だが、不思議なことに、いったん、ウチに戻ろう、という気にならなかった。そのときは、どうせ帰ってもメチャメチャになっているだろうから、帰ったら、処理で戻って来られなくなるだろう、と踏んでいた。

 練馬文化センターに行くとき、バスのロータリーの様子を見た。今までみたこともない光景であった。スーツ姿の人たちが、歩道に乗れないくらいに集まっていて、バスを待っていた。電車も動かない状態になっているのだと悟った。

 それを見て、あと一本、大江戸線に遅れて乗っていたら、地下でやられていることを理解したのである。あの妙な感じは、誰かがオレに語りかけていたのかもしれない。

 後で知ったことだが、地下鉄でやられた人たちは、坑道を歩いて行ったそうである。

 この地震のあと、まだ次に大きいのが来るかもしれないと思っていた。だから、今日の仲間の演奏会が、今生の最期の演奏会であってもいい、と感じていた。

 練馬駅前の喫茶アンデスに入ると、店員さんが、テーブルに本を積んでいた。本だらけのこの空間は、派手にやられたそうだ。

 「最後の晩餐に」と言って、月に二度くらいここで食べる焼肉ライス定食をお願いした。妙に魔力のある味付けなので、これが、今生最後の食事であってもいいと思っていた。

 時間が来て、ホールに行く。会場に入ったら、仲間がオレの姿を見つけて、駆け寄ってきた。オレの前に倒れる様にひざまずいて「みんなが!みんなが!」と言った。彼女は泣いていた。

 演奏会は中止しようとの判断に、彼女は、「一人でもお客さんがきてくれるかもしれない。だからやるんだ」という意味のことを言ったそうだ。それで演奏会は決行となったそうだ。

 こうなっては、適切なことばも見当たらなかったが、「悔いのない様にな」と答えた。

 演奏中は、昼間ほどではないが、予震もあった。

 演奏が終わり、彼女がお礼にきたのだが、ちょっとオレは引き留め過ぎた。帰ることのできない子たちがいるだろうから、ウチで何人か引き受けようか、と思っていたからだ。実際、「きょうは帰れません」と言っていた。

 ホールを出ると、普段と全く違うのは、大勢の人が、千川通りを歩いて帰る姿だった。PHSは何故か通じたので、友人たちのところに安否確認の電話を入れながら、帰った。

 帰ると、部屋はかなり酷い状態だった。大きなテレビも倒れていたが、それ以上跳んでいかなかったのは、ケーブルでチューナーと繋がっていたからだった。電話が通じることも確認。

 すると、合唱団の先輩から、電話が入った。「お前、テレビを観てみろ」というので、思い出したかの様にテレビのスイッチを入れると、真っ暗ななか、街全体が燃えている映像があった。

 「いいか。朝にならないと、被害の全貌は分からないからな。日本はこれからがらっと変わるぞ」と先輩が言った。

 そして、「俺たちは生き残ったんだよ。そのことを忘れずにな」と続けた。

 ネットが生きていたので、情報を集めた。原発がやられたらしい。とうとうその日が来たか、と思った。

 これが3.11の始まりの日であった。

 未だに鮮明な記憶としてあるのは、一種のPTSDかもしれないし、実際、それからというもの、時間感覚のマヒ、という症状はある。昼になったら、命日反応があるかもしれない。

 とりあえず、その日のことを回想してみた。というか、回想というより、少しも記憶が風化せず、はっきりと残っているのが、症状かもしれない。


   2011年3月11日以降の日記より
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# by bwv1001 | 2012-04-12 22:32