いろんな「言い分」
2012年 03月 02日
深夜にメシが食いたくなる、というのは、どういうことなんだろう。きょうは普段よりは、贅沢をしている。夕方、というか、朝から夕方まで食っていない訳だが、松屋のトマトカレー。これが、実はかなり食える味で、癖になる。夏はずいぶんお世話になった献立だ。
夜、と言っても、もう九時を過ぎていたのだが、近所のお魚やさんのお寿司、半値で出ていたので救出。とはいえ、本当に食いたいものだったのかどうかは不明。たまには、握りでも、からださんに食ってあげよう、という感じ。
で、いま、また食いたくなってきた。でも、いったい誰が食いたいんだろう、と思い、自分さんのいろいろな部分に聴いてみる。
まず、からださんが食いたいという訳ではなかった。頭脳さんでもない。
食いたいのは、自我さんと、煩悩さんであった。他の人は、この夜中に食おうとは、考えていない。
ということは、生理に対しては、自我さんと、煩悩さんは、過剰である、ということになるのだと思う。(そうだ、と自分さんは答える。)
松屋のトマトカレーは、普段どうかというと、自分さんのいろいろな部分が欲しがっている場合が多いので、その言い分を聴いて、食うことになる。同じ値段でも、ブタめしとかは、ほとんどの存在は、食いたいとは言わない。オレがオレと思っているオレが、食いたいと思っても、合議制による採決であると、ぶた飯を食いたいと思っているのは、大抵は煩悩さんである。
食う、という行為は、生理的な様でいて、実は、煩悩さんに突き動かされている場合が多い。煩悩さんに限ったことではないが、本当に必要な分だけ食べる、ということを考えている存在は、自分のなかにあまりいない。(そうだ、と自分さんが答える。)
言い方をかえると、生理的、と思っている部分というのは、実は生理ではなく、生理さんでもなく、別の存在の言い分にまみれた生理さんでしかない。
別に、生理に戻らないといけない、とは思わないが、つましく生活していくためには、本当に必要なものだけを食っていく、という方針が必要だから、生理さんの言い分というのは、最大に聴かないといけない、というだけのはなしである。
ただ、食うことに喜びもないといけないので、たまにはお寿司も食うし、夏はトマトカレーも食う、というだけの話なのである。
ただ、極められるなら、極めてみたい、ということはある。
それは、どんなメシであっても、その「いま、ここ」では、最高の食い物として受け取る感覚というか、時空という幻想を超越した感覚である。それが、ある意味では、夢である。
人間というからださんを持つ生き物として、食い物というのは外すことができない。逆にいうと、人間という存在のいちばんコストのかかる部分は食い物なのである。くわなければ、点滴でもしない限り死んでしまう。
毎日納豆でも飽きない、とか、トマトカレーでも飽きない、というのは、ある程度、「いま、ここ」での味覚が感じられているからだろう。そうでなければ、こんな単調な食生活が続く筈がない。あるいは、そうでなければ、著しく感覚鈍磨・感情鈍磨している、ということになる。だが、後者の場合ではないと思う。
思ったよりも、感謝という態度があって、いま、ここで、食い物に対峙する、ということができているのだと思う。まだ先が長いかもしれないが。
食うというのも、修業のうち、といえばそうである。修業のつもりでやっている訳ではないが、その感じは否定はできない。
理想をいえば、自在に食うことであるが、オレにはその余裕がないのと、極めた食い物をあまり知らないので、オレが目指せるところではない。
だが、味覚がほかの感覚を規定する、ということはある。だから、あまり単調に食う、ということは、あまりいいことではないのではないかと思う。
もうちょっと、気楽に、いろいろな食い物に手がだせると嬉しく思う。
2011年3月11日以降の日記より
夜、と言っても、もう九時を過ぎていたのだが、近所のお魚やさんのお寿司、半値で出ていたので救出。とはいえ、本当に食いたいものだったのかどうかは不明。たまには、握りでも、からださんに食ってあげよう、という感じ。
で、いま、また食いたくなってきた。でも、いったい誰が食いたいんだろう、と思い、自分さんのいろいろな部分に聴いてみる。
まず、からださんが食いたいという訳ではなかった。頭脳さんでもない。
食いたいのは、自我さんと、煩悩さんであった。他の人は、この夜中に食おうとは、考えていない。
ということは、生理に対しては、自我さんと、煩悩さんは、過剰である、ということになるのだと思う。(そうだ、と自分さんは答える。)
松屋のトマトカレーは、普段どうかというと、自分さんのいろいろな部分が欲しがっている場合が多いので、その言い分を聴いて、食うことになる。同じ値段でも、ブタめしとかは、ほとんどの存在は、食いたいとは言わない。オレがオレと思っているオレが、食いたいと思っても、合議制による採決であると、ぶた飯を食いたいと思っているのは、大抵は煩悩さんである。
食う、という行為は、生理的な様でいて、実は、煩悩さんに突き動かされている場合が多い。煩悩さんに限ったことではないが、本当に必要な分だけ食べる、ということを考えている存在は、自分のなかにあまりいない。(そうだ、と自分さんが答える。)
言い方をかえると、生理的、と思っている部分というのは、実は生理ではなく、生理さんでもなく、別の存在の言い分にまみれた生理さんでしかない。
別に、生理に戻らないといけない、とは思わないが、つましく生活していくためには、本当に必要なものだけを食っていく、という方針が必要だから、生理さんの言い分というのは、最大に聴かないといけない、というだけのはなしである。
ただ、食うことに喜びもないといけないので、たまにはお寿司も食うし、夏はトマトカレーも食う、というだけの話なのである。
ただ、極められるなら、極めてみたい、ということはある。
それは、どんなメシであっても、その「いま、ここ」では、最高の食い物として受け取る感覚というか、時空という幻想を超越した感覚である。それが、ある意味では、夢である。
人間というからださんを持つ生き物として、食い物というのは外すことができない。逆にいうと、人間という存在のいちばんコストのかかる部分は食い物なのである。くわなければ、点滴でもしない限り死んでしまう。
毎日納豆でも飽きない、とか、トマトカレーでも飽きない、というのは、ある程度、「いま、ここ」での味覚が感じられているからだろう。そうでなければ、こんな単調な食生活が続く筈がない。あるいは、そうでなければ、著しく感覚鈍磨・感情鈍磨している、ということになる。だが、後者の場合ではないと思う。
思ったよりも、感謝という態度があって、いま、ここで、食い物に対峙する、ということができているのだと思う。まだ先が長いかもしれないが。
食うというのも、修業のうち、といえばそうである。修業のつもりでやっている訳ではないが、その感じは否定はできない。
理想をいえば、自在に食うことであるが、オレにはその余裕がないのと、極めた食い物をあまり知らないので、オレが目指せるところではない。
だが、味覚がほかの感覚を規定する、ということはある。だから、あまり単調に食う、ということは、あまりいいことではないのではないかと思う。
もうちょっと、気楽に、いろいろな食い物に手がだせると嬉しく思う。
2011年3月11日以降の日記より
by bwv1001
| 2012-03-02 23:28